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ニューズ&コメンタリー

振興銀監視 体制ひ弱 金融庁検査3度

織田 一(おだ・まこと)

 中小企業向け融資を専門にしていた日本振興銀行が経営破綻し、初のペイオフが発動されて1カ月が過ぎ、預金者への払い戻しが進む。もっと早く経営乱脈の芽を摘み、不良債権の増大を抑えることができなかったのか。振興銀の転落は、金融行政を含む銀行経営のチェック体制にも課題を投げかけている。


 ■疑惑の全容つかめなかった金融庁

 旧経営陣の責任に迫るのは、金融整理管財人として業務を引き継いだ預金保険機構だが、まっとうな銀行でなかったことは確かだ。

 「親密企業を介して不良債権を別の関連企業に飛ばしている」「大口規制を逃れるための『迂回融資』があちこちに見られる」。同行の特別調査委員会がまとめた報告書は、振興銀を中心とする親密企業群「中小企業振興ネットワーク」のなかで不正疑惑行為が横行していたことを明らかにしている。

拡大日本振興銀行の小畠晴喜社長は記者会見の冒頭、頭を下げた=2010年9月10日、東京都千代田区有楽町1丁目で上田潤撮影
 7月に逮捕された前会長の木村剛被告らが振興銀を開業したのは2004年4月。報告書によると「ネットワーク」の創設は08年7月。不良債権飛ばしは09年上期に確認され、同年下期には自己資本のかさ上げの疑いがある融資が行われていたという。

 ただ、開業から約1年後には「身内の企業に不明朗な融資をしている」との報道が相次いでいた。金融庁は05年11月、悪評に背中を押される形で同行に立ち入り検査を実施したものの、結果は空振り。木村被告は「身内企業」と断定されないよう出資比率を抑えたりしていたという。

 07年4月から10月までの2回目の検査では債務者のリスク管理体制の不備などを指摘するにとどまった。報告書通りだと不正疑惑行為はこの2回目の検査後に相次いだことになる。金融当局者は「ネットワークが実際に動き出したのは09年に入ってから。この2年でビジネスモデルは様変わりしていた」と指摘する。

 実際、振興銀は08年度に急拡大路線に踏み出している。08年3月末に1274億円だった預金は1年後に4022億円に。829億円だった融資は3134億円に急伸。高金利で預金をかき集め、ネットワーク内に融資をつぎ込んでいたようだ。

 金融庁が3回目の検査に入ったのは09年6月。ノンバンクからの債権の買い取りなど、創業理念とかけ離れたビジネスに猛進していたからだ。10年3月までの異例の長期検査で、身内企業への大口融資の管理の甘さなどを突き止め「09年3月末時点で債務超過だった」と結論づけた。

 しかし、3回目の検査でも不良債権飛ばしなどの疑惑の全容はつかめなかった。検査はあくまで09年3月末時点の財務状況が対象で、それ以降の財務問題は対象外だった。金融庁は「振興銀がいろいろ手を広げていることはわかっていたが、融資先にまで立ち入り検査することはできない。銀行とぐるになって融資先が財務諸表をきれいにしていたりしたら不良債権先にできない」(検査局幹部)と弁明する。

 振興銀は検査が終わって約2カ月後、「10年3月期決算は資産超過」と発表する。「3月末にも白旗を揚げる」と踏んでいた金融庁は驚き、「なぜ、1年で資産超過になるんだ」と銀行側に迫った。そこに検査忌避の疑いが浮上。金融庁の言い分に抵抗していた木村被告が逮捕されて事態は急展開し、振興銀は1800億円の債務超過を認め、破綻した。

 政府が不良債権の処理を最優先課題に掲げていた2000年代初頭、金融庁は検査を通して、大手銀行に対して大口の不振企業への融資の傷み具合を厳格に査定するよう求め、業界再編を後押しした。そうした「剛腕」ぶりは振興銀問題ではなりを潜めたようにみえる。

 ただ、当時は不振企業が市場で名指しされ、金融庁は、再建計画の実現性を巡って銀行とやりとりするなかで経営実態を把握できた。曲がりなりにも融資先の財務諸表はあった。対して振興銀は「融資先の財務状況がわかる資料はない。融資が焦げ付いても関連企業が保証するので大丈夫」と突っぱねていたという。

 ■金融行政の「ご意見番」から……

 「本当に検査に落ち度がなかったのか」。金融界にそうした疑念がくすぶっている。

 金融庁は01年に異業種が金融業界に参入しやすくなるよう規制を緩めた。これを受けて振興銀は「15%程度の金利で中小企業に必要な資金を供給する」と旗揚げした。

 90年代後半からの不良債権問題の解決を最優先課題とする金融行政は、05年に「平時モード」に切り替わり、その後は、中小企業融資を促すために不良債権の定義を緩めるなど、金融界が「逆走」と驚くほどかじを切った。振興銀は、政府の「中小企業に資金供給」との要請にぴったりだった。

 振興銀の検査・監督にかかわった元金融庁首脳らは「中小企業の資金繰りが厳しいなか、銀行には融資の積み上げを求めていたが、だからといってリスク管理のチェックを軽視することはあり得ない」と、振興銀への「手心」を否定する。一方、金融界には「将来が不安視されていたビジネスモデルをいったんは認めただけに、すぐには『不合格』の印は押せなかったのではないか」(メガバンク企画担当者)との不信が残る。

 木村被告が金融行政のご意見番だったことも疑念を膨らませている。

 木村被告は98年の日銀退職後、不良債権の判定を検証する目安となる「検査マニュアル」を金融監督庁がまとめる際のメンバーの一員に。02年には竹中平蔵金融担当相のもとで金融庁顧問となり、不良債権処理を加速させる「金融再生プログラム」の作成を主導。一躍名を上げた。

 こうした経緯から、昨年政権交代を果たした民主党内には、04年4月の銀行免許を問題視する動きがある。自見金融相は「竹中さんは道義的責任は免れない」と言う。竹中事務所は「振興銀に関する取材は一切受けていません」。

 当時は新しいタイプの銀行の登場を促す行政を歓迎する声があったのも確かだ。金融庁には「参入の条件を満たしていれば、新事業の有望性について役所が判断するのはおかしい。実際、できない」との声が少なくない。

 ■市場規律の強化を

 第二の振興銀を封じるには、銀行に「規律」をもたせる体制を強化する必要がある。

 金融行政は98年に、銀行経営のはしの上げ下ろしにまで口を出す「事前指導型」から、銀行が自分で財務状況などをチェックし、それを行政が点検する「事後監視型」に歩み出した。その後、不良債権処理を進めるなかで金融機関は経営情報を幅広く開示するようになり、会計ルールの見直しも進んだ。

 今回の破綻劇では、預金が一定額までしか払い戻されないペイオフが初めて発動された。「大口預金者が銀行の経営状況などにより大きな関心を持つようになり、銀行の自覚も高まる」(前金融庁長官の佐藤隆文・一橋大教授)と評価する声は多い。

 公認会計士の役割も大きい。振興銀は非上場とはいえ公共性の高い金融機関。経営の失敗は公的資金でぬぐわれた。報告書の指摘通りの乱脈融資を繰り返していたとしたら、公認会計士はどのような判断で財務諸表に判を押していたのだろうか。

 金融庁検査局の佐々木清隆総務課長は、この「法と経済のジャーナル」などで

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織田 一(おだ・まこと)

 朝日新聞編集委員。長崎県佐世保市出身。1986年、朝日新聞入社。新潟支局、横浜支局を経て、91年4月に東京・経済部。98年10月から約2年間、バンコク総局員。  横浜支局では警察担当記者としてオウム事件などを追った。経済部では主に金融行政・政策、金融業界、国際経済を担当。

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