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ニューズ&コメンタリー

日航機で事故死した住銀元常務の娘に26年後の戸籍

奥山 俊宏(おくやま・としひろ)

 住友銀行でロンドン支店長や常務取締役を歴任した銀行員、湯川昭久さんは30年前の1985年8月12日、羽田発伊丹行きの日本航空123便ボーイング747に乗っていて命を絶たれた。56歳だった。当時、湯川さんが副社長を務める住銀総合リースは、皮肉なことに、ボーイング製の航空機を日本航空にリースする初めての取引に乗り出そうとするところだった。それから26年を経た2011年、湯川さんが英国人女性、スザンヌ・ベイリーさん(57)との間にもうけた二人の娘は、日本の法律に基づいて初めて、湯川さんの娘であることを戸籍の上で認められ、日本国籍を取得し、日本人となった。ベイリーさんは12日、群馬県上野村、御巣鷹の尾根に登り、昭久さんの墓標のそばで、二人の愛の証しとなる「戸籍」を勝ち取ったと泣きながら報告した。

 ■2011年3月

 和歌山県新宮市役所で2011年3月3日に編製された次女の戸籍には次のように記されている。

【生年月日】昭和60年9月16日
【父】湯川昭久
【母】ベイリー、スザンヌベリンダ
【届出日】平成23年2月7日
【受理者】在ロンドン総領事
【特記事項】平成12年3月13日英国高等法院の父子関係存在確認の裁判確定

 父、湯川昭久さんが85年8月12日に亡くなって1カ月弱後の9月16日、次女は東京・南麻布の愛育病院で生まれた。その次女が、日本の法律に基づいて、湯川さんの娘と認められ、戸籍がつくられたのは2011年3月のこと。日本政府のロンドン総領事によって日本のパスポートが次女に発行されたのは2011年8月12日、父の命日のことだった。

 ■銀行の国際化

 湯川昭久さんは東京大学経済学部を卒業して1952年(昭和27年)4月に住友銀行に入った。国際畑を歩み、1976年(昭和51年)7月から80年(昭和55年)までロンドン支店長を務めた。そのロンドンの地でバレリーナだったベイリーさんと知り合った。

拡大スザンヌ・ベイリーさん。湯川さんとともにかつて住んでいた家はマーブルアーチの近くにある=2014年5月31日、英ロンドンで
 ベイリーさんによると、1978年11月21日、初めて会ったとき、息が止まるほどのエネルギーとカリスマ性を昭久さんに感じた。昭久さんは、日本人の妻との間に成年に達した息子が二人いたが、79年初めには、ベイリーさんと一緒に暮らし始めた。ベイリーさんは昭久さんのことを「アキ」と呼ぶようになった。

 昭久さんは80年11月に大阪の本店に転勤。神戸に移り住んだ。ベイリーさんも日本に渡った。81年7月3日に長女が生まれた。

 昭久さんは81年11月に住友銀行の常務取締役国際第一本部長となった。82年6月8日の日経産業新聞には次のように紹介されている。

 湯川昭久常務は五十三年(1978年)英国電力庁へのシンジケートローン主幹事を手に入れた立役者。香港支店長時代には現地企業との取引拡大に功績があり「銀行の国際化は現地の非日系企業との関係の深さが決め手になる」と言い切る実践派だ。

 1984年(昭和59年)4月に湯川さんは住友銀行の常務を退任し、住銀総合リースに顧問として入社。同年6月20日、その副社長に就任した。

 住銀総合リースは大阪市に本社を置き、東京・内幸町に東京本社を置く、2本社制を採っていた。湯川さんは東京・南青山でベイリーさんと暮らしつつ、大阪との間を行き来した。

 同年8月27日の日経産業新聞は、住銀総合リースが米ニューヨークに子会社・住銀総合リースUSAを設立し、その会長に湯川さんが兼務で就任した、と報じている。

 新会社は九月から営業を開始、当面は米国のリース制度のノウハウ取得、リース業界の情報収集や住友銀行の米国内各支店と共同でわが国から現地に進出した企業を対象にリース事業を展開していく方針。将来は米国の金融機関などと協力して大型の国際リース商談に参加していく考えである。

 ベイリーさんは間もなく昭久さんの二人目の娘を身ごもった。

 ■ボンド・ストリートで

 湯川昭久さんは生前、出会った人に深い印象を残していた。

 写真家のハービー・山口さんは、英ロンドンで修業していた無名時代、湯川さんと言葉を交わしたことを今も鮮明に覚えている。

 山口さんは、大学を卒業して間もない1973年に渡英し、写真家となることを目指していた。ロンドンに来て4年ほどがたった春の日、知り合いが働く日本食レストランの開業1周年のパーティーに招かれ、ボンド・ストリートの近くにあった同店に顔を出した。そのカウンター席で、湯川さんと隣り合わせになった。
 湯川さんはスーツを着て、いかにも、エリートそうに見えた。水割りを飲んでいた。軽く会釈した。
 山口さんは久しぶりにビールを飲み、肉を食べた。貧乏だったから、アルコールや肉を口にすることがふだんはできなかった。
 湯川さんは山口さんに「何をされているんですか」と尋ねてきた。問われるまま、山口さんは、撮った写真のこと、ロンドンの好きな場所、友人のことを説明した。湯川さんは、クラシック音楽が大好きで、自分でもピアノを弾く、と言った。
 同じロンドンで暮らす日本人の二人だけど、着ているものも地位も年齢も違った。湯川さんは住友銀行のロンドン支店長。山口さんは写真家を目指していたが、社会的には宙ぶらりんだった。でも、山口さんは湯川さんに垣根を感じず、「人を安心させる何かがある」と感じた。
 会話が始まって30分ほどたったとき、湯川さんは山口さんに向かって次のような趣旨の言葉を口にした。
 「君の瞳は本当に澄んでいる。汚さないようにしてくださいね。きっと、いい写真家になります」

 それまでの二十数年の人生の中で、山口さんは、そんなに肯定的な言葉をかけられた覚えがなかった。
 日本を出てロンドンで暮らし始めてから常に、孤独だった。心細かった。寂しかった。愛情に飢えていた。優しい言葉で励まし合う相手はいなかった。国際電話の料金はとても高く、日本に電話をかけることはできなかった。
 夢を追いかけていた。「ひたすら一枚でも多くシャッターを切ることに全エネルギーを注いでいた」。1秒、1秒が勝負だった。いつも緊張していた。
 そんな境遇にあった山口さんの心に染み入るように、湯川さんの言葉は深く響いた。
 湯川さんの「頑張って」という言葉だけで、自分は十分頑張れる、と気持ちを奮い起こすことができた。「このまま僕なりに生きていけばいいんだ」と確信できた。
 山口さんは写真家としての実績を積み重ねていく。

拡大湯川さんらの遭難を取り上げた1985年8月13日の朝日新聞朝刊第2経済面の記事
 1985年8月13日、日本航空123便の事故を伝える朝日新聞の朝刊に、山口さんは湯川さんの名前と顔写真を見つけた。「ああ、湯川さんだ」と驚かざるを得なかった。
 そのとき、山口さんは東京にいた。初めての写真集「LONDON After the dream」の編集にあたっていた。それは流行通信から9月に刊行され、のちに「ロンドンにハービー・山口あり」と言われるようになる、そのきっかけとなった。
 2年後の1987年に「DATE」吉川晃司写真集(扶桑社)を出した。1994年に「LEICA LIVE LIFE」福山雅治写真集(ソニーマガジンズ)、1996年に「ANY HOME」高橋克典写真集(ワニブックス)、1998年に「代官山17番地」(アップリンク)、「尾崎豊」(光栄)と次々と写真集を出した。桑田佳祐、BOOWY、松任谷由実、山下久美子、DREAMS COME TRUEらのCDジャケットの制作にも関わった。

 2005年3月に出版したエッセイ集『日曜日の陽だまり』(求龍堂)の中で、山口さんは30年近く前の湯川さんとの出会いを書いた。
 「湯川さんの一言は、僕に暗闇の中の一条の光、いや一条どころか輝く光芒を心に与えてくれた。(中略)よし、もっと頑張ろう。写真を撮り続けようと思った」
 出世作となったロンドンの写真集を出すことができたのは湯川さんのおかげ、そんな感謝の気持ちをつづった。

 ■マンダリン オリエンタル 香港で

 東京の弁護士、外立(はしだて)憲治さんは、香港にある高級ホテル、マンダリン オリエンタル 香港のバーで湯川昭久さんがピアノを弾いてくれたときのことを今も美しい思い出として記憶にとどめる。

 1971年に大学を出て、73年に弁護士になると、外立さんはすぐに米国に渡った。ワシントン州立大学やコロンビア大学の法科大学院で学び、76年からは、ニューヨークやロンドンの名だたる法律事務所を渡り歩いて、弁護士としての腕を磨いた。
 手がけた仕事の中に航空機リースの実務があった。投資家が資金を出し合ってメーカーから機体を購入し、節税のメリットを得つつ、リース会社を通して、その機体を航空会社に貸す。「レバレッジド・リース」と呼ばれる。リスクを分散するため、複数のリース会社がシンジケート団(リース団)を組むことが多い。その契約書は、百科事典のように分厚い冊子となり、製本されることもある。
 1980年に日本に戻り、東京で外立法律事務所を開いた。日本のリース会社が日本の税制に合った「日本型レバレッジド・リース」を始めるのを手伝った。
 1機あたり百億円前後の資金が動く大きなビジネスだった。投資家にとっては大きな節税効果があり、現在、中小事業家にも広く普及しているが、当時の日本はその草創期だった。
 住銀総合リースの副社長だった湯川さんと知り合ったのは、そういう仕事を既に他のリース会社でいくつか扱っていたころだった。

 強烈な記憶として残っているのは、ある外国の航空会社に機体をリースする契約をマンダリン オリエンタル 香港で調印したときのことだ。住銀総合リースが主幹事となり、同業の他社がリース団に加わる予定だった。
 ところが、いざ契約書に署名するという段になっても、リース団に入るはずだった何社かのうち2社から連絡がなかった。
 契約書の署名はセレモニーなのだから、その前段階で意思表示をしておくべきなのに、新興のライバルへの嫌がらせなのか2社はだんまりを決め込んでいるようだった。
 マンダリン オリエンタル 香港の会議室で、湯川さんは外立さんに相談を持ちかけた。
 「私としては参加を締め切りたい。2社のポーション(引き受け予定の分)は我が社で引き受ける形にした場合、契約書を直して、このままサインできるようにできますか」
 外立さんは「できます」と答えた。「最短で30分、最長で1時間あれば、できると思います」
 湯川さんは「それではその2社を落とします」と即決した。
 部下に指示して、日本の本社など関係先に連絡させ、必要な承諾を得る手配をさせた。2社には、それまでにかかったコストを応分に負担させる方針も連絡させた。
 署名のセレモニーの直前になって百ページ以上もある契約書の内容を書き換えるなど、通常はあり得ない。ふつうの企業幹部ならば、カッカと焦り、部下を叱りつけるところだ。なのに、湯川さんは平然としていて、むしろ、そういう状況を楽しんでいるかのような風だった。
 外立さんは、定規をあて、線を引いて、2社に関する記述を削除した。手書きで必要な加筆を施した。全体を読み直して、矛盾が生じていないかチェックした。
 綱渡りではあったけれども、契約書は、取り交わされた。湯川さんは果断に、そして、正確に決断を下した――。外立さんはそう思った。

 その夜、会食の後、バーに移ったとき、湯川さんはブランデーを飲みながら、外立さんに聞いてきた。
 「外立さん、音楽は好き?」
 外立さんはクラシック音楽の大ファンだった。
 「じゃ、ピアノ、弾いてあげるよ」
 悠然と、湯川さんはピアノに向かって歩いた。そして、てらいもなく、バーのピアノを弾いた。静かな曲だった。
 ピンストライプのフラノ生地の濃紺スーツが湯川さんにはよく似合っていた。しかも、湯川さんはそれを適度に着くずしていた。
 「住友グループはすごい。こんな人がいるんだ」
 外立さんが感心していると、湯川さんの部下が「住友家5代目総理事の湯川寛吉と縁のある人で……」と説明してくれた。
 湯川さんは席に戻ると、外立さんに言った。
 「タフな中でも外立さんがしっかりやってくれるというのは、昼間、よく見させてもらった。これから、もっともっと大きな仕事をやっていく。国際的な仕事を発展させていく。だから、外立さん、頼んだよ」
 外立さんは「この人なら、新しい分野で、でかいことをやるだろうな」と思った。
 かっこうよくて知性と教養にあふれる湯川さんに魅了され、その湯川さんと一緒に仕事を切り開いていける予感に外立さんは興奮していた。

 それから数カ月後の1985年4月10日、住銀総合リースの大阪本社で会議が開かれた。外立さんはそれに出席するため、東京から大阪に出張した。伊丹空港の近くに桜が咲いているのが見えた。
 議題は、新しいプロジェクト。日本航空に機体をリースする取引の分析・検討だった。法務部門、社長室を含め、10人以上が、リース会社としてリスクをどう負担し、ヘッジするかなどについて、外立弁護士の意見を聞きながら話し合った。

 その年の8月12日、東京から日本航空123便のボーイング747に乗って伊丹空港に向かう途中、湯川さんは遭難した。
 外立さんによると、住銀総合リースと日本航空の交渉は、「事故があったので控えましょう」というムードになり、しばらく沙汰やみとなった、という。
 翌86年2月、住銀総合リースは「住銀リース」に商号を変え、夏前に日本航空向けの取引の準備を再開した。
 日本航空の有価証券報告書によると、住銀リースは日本航空との間で以下のようにリース契約を交わした(注)

 1986年12月19日から15年、住銀リースからボーイング767型を1機(国内線用)
 1987年8月14日から15年、住銀リースなどリース団からボーリング747F型を1機(貨物専用)

拡大日本航空の1988年3月期の有価証券報告書の「設備の状況」の欄の記載の抜粋

 外立さんによると、取引が実現し、機体が無事引き渡されたとき、日本航空の担当者も、住銀リースの担当者も、湯川さんの御霊に手を合わせた。
 以後、住銀リースから日本航空にリースされる機体の数は少しずつ増えていく。

 ■7年間のファミリー・ライフ

 湯川昭久さんはベイリーさんと英国で2年、日本で5年、一緒に生活した。

 ベイリーさんは次のように話す。

 彼は、会った人のすべてに消えない印象を残すような人でした。そんな男性に愛されて、私は本当に幸せです。今もなお幸せです。彼と一緒に暮らしたことによるインスピレーションは何よりもパワフルです。(I’m still lucky. Lucky. Lucky. We were together only – we had our family life together seven years. And I’m so lucky for that. He was such a kind of person that would have left a lasting impression on anybody. And, to be loved by such a man, it’s like...Inspiration is more powerful than those terrible things of corruption and accidents that shouldn’t have happened.  I would like to think that the inspiration of that life we had together is so great.)

拡大昭久さんとベイリーさん、長女(ベイリーさん提供)
 85年8月10日、ベイリーさんは家で昭久さんの髪を切った。昭久さんは仕事にとても忙しくしていた。理容店に足を運ぶ時間もないから、髪を切ってほしい、と頼まれた。初めてのことだった。切った髪をベイリーさんは捨てずに保管した。

 85年8月13日、事故の翌朝、昭久さんの母親がベイリーさんのところに駆け込んできた。文字通り心は壊れ、息をすることもできず、食事ものどを通らないように感じた。

 生前の昭久さんにプレゼントしたシガレットケースが事故現場で見つかり、それがベイリーさんへの形見となった。

 事故の1カ月余後の9月16日、ベイリーさんは次女を出産した。

 出産2カ月後の11月14日、ベイリーさんは、昭久さんの父の側から1億円を受け取る代わり、それ以外は権利を主張しないとの覚書に署名させられた。二人の娘にあるはずの相続の権利について、覚書には「今後一切の請求をしない」と記載されていた。同じ日、東京の弁護士を紹介され、その弁護士に対する委任状に署名させられた。その弁護士とは、わずかな時間、話をしただけだった。

 ショックを受けてパニックの状態だった。通常の精神状態ではなかった。そのうえ、ベイリーさんは、自分たち母子が何か悪いものであるかのように扱われていると感じていた。

 翌日、ベイリーさんは二人の娘を連れて片道切符で英国に帰ることになった。

 ■英国に戻って

 英国でベイリーさんは新しい生活を始めなければならなかった。

 ベイリーさんは、昭久さんの生前の願いに従って、娘たちに特別な音楽教育を受けさせた。長女はピアノ、次女はバイオリンに才能を発揮するようになった。

 29の歳の開きがあった湯川さんは生前、「もし僕がいなくなったら、君はまた恋をして、幸せにならなければならない」とベイリーさんに言っていた。しかし、湯川さんに代わることのできる男性には出会えなかった。特定の男性と深い仲になったこともあったが、結婚はしなかった。

 昭久さんに対するベイリーさんの思いは生き続けた。

 アキに関するすべてを私は大切にしています。それは過去に生きることではなく、それとはまったく違う感覚です。そのことは今もなお、私をさらに強くし、さらに幸せにします。(I believe in keeping everything about Aki with me, and it’s not about living in the past; it’s a completely different feeling. But it just still makes – it gives me another strength and I feel happier.)

 娘たちに繰り返し父親のことを語って聞かせた。いかに素晴らしかったか、いかに偉大だったか、どんなにハンサムだったか……。

 ベイリーさんは英語教師などパートの仕事をして生計をたてようとしたが、やがて1億円は底をつき、生活は苦しくなっていった。

 ■三井住友銀行への手紙

 ベイリーさんは2007年8月、昭久さんのかつての勤務先、三井住友銀行に手紙を書き、支援を求めた。しかし、断られた。

 住友銀行と住銀総合リースは1985年に事故が起きた当時、湯川昭久さんの日本の遺族に弔慰金を支払っており、その時点で解決済みであり、「法律上の基礎を欠く要求に応じることはできない」というスタンスだった。住銀総合リースの後身にあたる三井住友ファイナンス&リースにも2014年9月に手紙を書いたが、「当社は現時点でいかなる義務も負っておりません」という返答だった。

 1985年秋、ベイリーさんは、最愛の人を失い、その幼子を抱え、精神的に不安定な状態だった。そんなときに事故後の処理に関する覚書への署名を強いられたとして、年月を経るにつれ、ベイリーさんは強い疑問を抱くようになった。

 住友銀行の当時の首脳が覚書のスキームを湯川さんの父親ら遺族に押しつけたのではないか――。伝え聞いた話を根拠に、ベイリーさんはそう疑い、その疑問の一端を三井住友銀行の弁護士にぶつけた。

 三井住友銀行の弁護士からは「調査しましたが、そういう事実は確認できませんでした」という趣旨の答えが返ってきた。

 2014年7月、ベイリーさんは、29年前に自分の代理人として「覚書」関連の和解に関わった東京の弁護士の懲戒処分をその所属する弁護士会に請求した。

 1985年秋、その弁護士は、ベイリーさんが精神的に不安定で体調不良の状態だったのに書類への署名をさせ、また、娘たちの相続の権利が侵害されようとしているのに家庭裁判所に特別代理人を選任するよう求めなかった――と、ベイリーさんの側は主張した。これに対して、その弁護士の側は「仮に当時ベイリー氏が体調不良及び精神的に不安な状態にあったとしても、弁護士はその事実をベイリー氏から告げられておらず、知らなかった」「覚書に署名するように指示したという事実はない」と反論した。

 2014年12月、弁護士会は「請求者が主張している懲戒事由については、既に3年が経過している」として懲戒処分を断った。いわば既に時効が成立しているとの判断だった。ベイリーさん側は日本弁護士連合会に異議を申し立てたが、今年5月21日、それも棄却された。

 ■戸籍ミッション

 昭久さんの戸籍に自分たちの娘の名前を記載させることは、ベイリーさんにとって、昭久さんから託された「ミッション(使命)」の一つだった。

 昭久さんは娘を認知することなく亡くなった。しかも、年月が経過してしまっていた。だから、だれに聞いても、「不可能だから、あきらめなさい」と言われた。

 昭久さんの本籍があった和歌山県新宮市の市役所に届けたが、拒否された。しかし、「死ぬまで、トライし続ける」と決めていた。

 2009年12月、和歌山県選出の国会議員の事務所に電話した。たまたま電話に出た女性秘書は英語を話すことができた。そして、その秘書は以前、日本航空のウィーン支店で勤務した経験があった。彼女は「これは話をきかなきゃいけない」と思った。

 「私と二人の娘は、いとしい父親、故湯川昭久のために、戸籍の問題を解決しようと必死に努力しています。国際人権問題としてこれを考慮していただけないでしょうか」

 そんなベイリーさんの「陳情」を受けて、秘書は法務省民事局に経緯を問い合わせた。

25歳になって作成された次女の戸籍
 2010年12月21日、秘書からベイリーさんに朗報が電話で伝えられた。法務省はベイリーさんの願いを聞き入れる方針を決めたという。それは異例中の異例の措置だった。

 2011年3月3日、二人の娘との父子関係が英国の裁判で認められたという事実がすでに除籍となっていた昭久さんの戸籍に加筆された。同じ日、二人の娘の戸籍が新たに作られた。長女の戸籍には、幼い男の子と女の子、つまり、ベイリーさんと昭久さんの二人の孫の名前も記録された。

 日本政府がついに認めてくれた――。ベイリーさんはそう感じた。

 そして今、「アキの雇用主である住友銀行にも同じことを認めてほしい」と思う。

 ■遺髪をペンダントに入れて来日

 2015年8月8日、土曜日の午前11時9分、アリタリア航空784便が到着したとの放送が成田空港第一ターミナルの到着ロビーに流れた。
 ロンドンを前日に出発し、ローマを経由して、ベイリーさんが日本に着いたのだ。定刻の午前10時半より40分遅れた。
 横浜市の知人宅に着くと、ベイリーさんは「30年前、彼なしで生きていくことを強いられました」と言い、次のように続けた。

 でも、30年たっても50年たっても永遠に、彼と私のつながりは不変だという証拠を彼に見せることができます。私はいま彼の恋人としてここにいます。愛は死をもしのぎます。そのことを証明し、それを祝いたいような気持ちです。ここ日本で私は家に帰ってきたような気持ちです。彼の肉体はここに存在しませんが、精神的なつながりは今も深まっています。(I was forced to live without him. Forced. And being forced to live without him, but I hope I can give him the proof that 30 years or 50 years or forever years doesn’t change our connection. I am here now as his true love, and I want to prove that, in a way – because he always taught me about the meaning of pure love, and I want to prove that – it’s like a celebration of that pure love can overcome death. I’ve had the happiest and the saddest experience. And yet, when I come back today, it feels like coming home. He’s not here physically, but the spiritual connection is still growing.)

 事故の2日前に切った彼の髪の毛は今も大切に封筒の中に保管している。昭久さんの香りをそれに感じることもできる。そのうちの何本かをペンダントに入れ、それを身につけて、ベイリーさんは日本に来た。

 ■御巣鷹の尾根で

 8月12日、ベイリーさんは御巣鷹の尾根に登った。10年前に来たときよりも登山道の整備が格段に進んでいた。
 遺族のために設けられた受付の前にベイリーさんは立った。「ご遺族代表者氏名」の欄に自分の姓名を署し、「ご被災者氏名」の欄に「AKIHISA YUKAWA」と書き込んだ。

 昭久さんの遺体が見つかったとされる「4D」は、ほかの多くの人たちが見つかった場所よりも北に外れた、急な斜面の途中にぽつんとあった。木で作られた「湯川昭久」と「AKIHISA YUKAWA」の墓標のそばで、ベイリーさんは語った。

 彼が死んだ後、キャシー(長女)がおらず、(次女を)妊娠していなかったら、私は簡単に死んでいました。(子どもがいたから)私は死ぬことができませんでした。私は彼への約束を果たさなければなりませんでした。私は全力を尽くしてきました。
 私が若かったとき、彼は純粋な愛(pure love)の意味について私に教えてくました。
 愛は事故よりも大きな力を持っています。私たちの愛は30年の経過よりも大きな力を持っています。私たちの愛は、物理的に私たちが引き離されたことよりも大きな力を持ってきています。
 結婚していようが結婚していなかろうが、そんなことよりも、愛はもっと強い、ということを私は証明したいです。事故は、私たちの未来の結婚を妨げたけれども、それは問題ではありません。愛はもっと強いから。
 「あなたは彼の家族じゃない」と言う人々がいます。でも、私の心の中で彼が「真実を伝えて」と言っているのが聞こえます。だから、私はトライし続けました。だれもがそうはならないと言いましたけれども。

 ベイリーさんはここで、娘たちの戸籍のコピーと昭久さんの戸籍のコピーを示して見せた。「単なる紙ではなくて、象徴的なもの」と言い添えた。

拡大湯川昭久さんの遺体が近くで見つかったとされる「4D」の標識のそばに立つベイリーさん=8月12日午後2時1分、群馬県上野村で
 ベイリーさんはさらに、本にするために書いたという原稿の束を取り出した。

 遠い昔、私が若かったとき、1981年、彼は「いつか私たちのラブストーリーを書いて」と私に言いました。私には無理と思いましたが、彼が言ったことだから、私は書きました。
 第1節には事故の前のことを書きました。当時、私たちの生活は完璧でした。
 もう一つ、彼が死んだ後に何が起こったかを書きました。真実を伝えること。私は打ち負かさなければなりません。

 ベイリーさんは泣きながら言葉を続けた。

 大切な人を亡くした人に伝えたい。
 ――亡くなった人と強い絆があって、同じ価値、同じ信念、同じ夢を共有していたのなら、それを保ち続けてほしい。保ち続けることができます。そうすれば、彼との関係は生き続けます。彼は別の形で生き続けます――。
 長女は彼のことを覚えているけれども、次女は彼を知りません。娘たちは彼の価値、彼の信念を自分の経験としては知りません。私だけがそれを伝えることができます。私は彼のメッセンジャーです。
 そういうふうにして私は生き残ってきました。

拡大事故30年後の空=8月12日午後6時37分、群馬県上野村楢原で
 昭久さんの死後、ベイリーさんは、彼との間の娘たちの母親として生きてきた。御巣鷹の尾根にこれまで慰霊に来たのも、彼の娘の母親として、だった。しかし、今年の慰霊登山では初めて、母としてではなく、彼の恋人として彼のもとに戻ってきた。ベイリーさんはそう思えたという。

 尾根から降りた後、宿で喪服に着替えると、ベイリーさんは午後6時から「慰霊の園」で開かれた追悼式典に出席した。遺族席の後ろから2番目の列に座った。
 午後6時22分、ほかの遺族たちに続いて、ベイリーさんは「慰霊の園」の祭壇の前に花をたむけた。両手の平を胸の前で合わせ、垂れた頭の前に近づけて約10秒、動かなかった。

 雲が夕焼けに照らされ、あかね色になっているのが薄暮の空に見えた。犠牲者の数と同じ520のろうそくにベイリーさんら遺族が火をともした。

 30年前に123便のボーイング747が御巣鷹の尾根に激突したのと同じ時間、午後6時56分に黙禱。空は一気に暗くなった。

 ▽注: http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=yuho_pdf&sid=10411#26

奥山 俊宏(おくやま・としひろ)

 朝日新聞編集委員。
 1966年、岡山県生まれ。1989年、東京大学工学部卒、朝日新聞入社。水戸支局、福島支局、東京社会部、大阪社会部などを経て特別報道部。『法と経済のジャーナル Asahi Judiciary』の編集も担当。
 著書『秘密解除 ロッキード事件  田中角栄はなぜアメリカに嫌われたのか』(岩波書店、2016年7月)で第21回司馬遼太郎賞(2017年度)を受賞。同書に加えて福島第一原発事故やパナマ文書の報道などを含めた業績で、日本記者クラブ賞(2018年度)を受賞。
 そのほかの著書として『パラダイス文書 連鎖する内部告発、パナマ文書を経て「調査報道」がいま暴く』(朝日新聞出版、2017年11月)、『内部告発の力 公益通報者保護法は何を守るのか』(現代人文社、2004年4月)、『ルポ 東京電力 原発危機1カ月』(朝日新書、2011年6月)がある。共著に『偽装請負』(朝日新書、2007年5月)、『ルポ 内部告発 なぜ組織は間違うのか』(同、2008年9月)、『検証 東電テレビ会議』(朝日新聞出版、2012年12月)など。
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 ご連絡は okuyamatoshihiro@gmail.comに。メールの内容を暗号化する場合はPGPで。パブリックキーのIDは7D2BAD43550EAD96

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