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深掘り

震災法廷

阪神大震災6433人目の死者 最高裁決定で

震災関連死の認定まで地震発生から8年近く

奥山 俊宏(おくやま・としひろ)

 1995年1月17日に発生した阪神大震災で最後の一人が「震災関連死」と認定されたのは地震発生から8年近くが過ぎた2002年12月26日のことだった。芦屋市の病院で闘病中に震災にあい、直後に亡くなった75歳の男性について「震災がなければ延命していた」との判決が最高裁で確定したことを受けての認定だった。「地震さえなければ…」という男性の妻の無念の思いが通った。

▽筆者: 奥山俊宏

▽この記事は、2000年4月28日の朝日新聞夕刊(大阪)に掲載された原稿と2003年1月14日の朝日新聞朝刊に掲載された原稿を下敷きに加筆・再構成したものです。。

▽関連資料: 災害弔慰金不支給決定を認めた1997年9月8日の一審・神戸地裁判決

▽関連資料: 災害弔慰金不支給決定を取り消した1998年4月28日の二審・大阪高裁判決

 

 ■第106報

拡大震災発生8年後に消防庁から発表された「阪神・淡路大震災について(第106報)」
 「阪神・淡路大震災について(第106報)」と題された資料は2002年12月26日、消防庁から発表された。そこには次のように箇条書きされていた。

 1 地震の概要(気象庁発表)

 (1)発生年月日  平成7年(1995年)1月17日(火)5時46分

 (2)地  震 名   平成7年(1995年)兵庫県南部地震

 (3)震 央 地 名   淡路島(北緯34度36分、東経135度02分)

 (4)震源の深さ   15km

 (5)規     模   マグニチュード7.3

 (6)各地の震度

   震度7  注)のとおり

   震度6  神戸、洲本

    ……

 2 被害状況

 (1)人的、物的被害等

   死    者  6,433人

   行方不明者      3人

    ……

 

 震災5年目(2000年1月11日)の第104報で認定され、理科年表や白書などでも採用されていた「死者6432人」がこの日、「死者6433人」に改められた。

 1週間前に最高裁が出した決定がその原因だった。被告・兵庫県芦屋市長の敗訴が確定し、原告・富子さん=仮名=の夫(享年75歳)は6433人目の死者となった。

 ■震災の朝、夫の死

 1995年1月17日午前7時、芦屋市の病院で富子さんの夫は死んだ。震災発生の約75分後だった。

 前年の11月に夫は腹膜炎で入院し、胃切除の手術を受けた。術後が思わしくなく、年末になるにつれて意識は遠のいた。人工呼吸器を取りつけられ、利尿剤の注入を受けながら、集中治療室に寝かされていた。

 震災直前の夫の様子について、98年3月3日、大阪高裁の法廷で、70歳の富子さんが芦屋市の訴訟代理人の尋問に答えている。

 芦屋市側 「見舞いに行ったときの状態はどうでしたか」

 富子さん 「意識があるときと、ないときがありました。小便が出ないときもありました。1月の震災前は、意識がありませんでしたが、毎日少しずつ小便は出ていました」

 芦屋市側 「震災の直前はいつ病院へ行きましたか」

 富子さん 「毎日行っていました。前日の1月16日も行きましたが、医師には会っていません」

 芦屋市側 「1月14日に主治医から『亡くなるのが近いだろう』と言われませんでしたか」

 富子さん 「『いつ変化があるかわからない』と言われました」

 芦屋市側 「1月16日の夫の状態はどうでしたか」

 富子さん 「意識はなかったですが、脈拍もありましたし、いつもと変わりませんでした」

 1月17日夕、震災発生の半日ほど後に、富子さんはその病院で夫の遺体と対面した。

 頭の中は真っ白だった。どうやって病院まで歩いたか記憶がない。ただ、集中治療室に一人ポツンと夫が寝かされていたことはよく覚えている。

 「夫が亡くなった日には、私は病院の医師とは会っていません。たくさんの人が病院に来ていて、話を聞けるような状態ではありませんでした。長男の話によると、遺体を引き取るときに、当直医から『地震のために機械が外れて亡くなった』という説明を聞いたそうです」

 ■芦屋市を相手に提訴

 夫は若いころバスの運転手をしていた。人づきあいがよく、労組の委員長を務めたこともあった。家庭でもマメで、家事もこなしてくれた。しょうちゅうの「いいちこ」が好きで、梅割にして、妻の目を気にしながら、ちびちび飲んでいた。思い存分飲ませてあげればよかったと富子さんは悔やむ。

 もともと病状が悪化していたのだから、最善の治療を受けてこの世を去るのなら、仕方ない。それが寿命だと思う。しかし、消えかかっていたとはいえ、最後の明かりをともし続けていた夫の命はあの日の朝、震災のせいで突然、断ち切られた。

 「モノを言わなくてもいい、目をつむっていてもいい、何でもいいから、生きていてほしかった。『安らぎ』いうんですか、主人の顔を見るだけで、『ああ、主人がいるんだな』と安らぎますから。特に震災の後でしたから、あのときは、いてほしかった」

 この無念の思いを認めてほしいと富子さんは思ったが、行政の判断は違った。「死の直前にたまたま震災があっただけで、震災による死亡とは認められない」として、芦屋市は災害弔慰金を富子さんに支給しないと決定した。

 96年1月31日、富子さんは、芦屋市長を相手取り、災害弔慰金不支給決定の取り消しを求める行政訴訟を起こした。

 ■死因、異なる死亡診断書

 2通の死亡診断書が書証として法廷に提出された。それぞれ「乙1号証」「乙2号証」と符号を打たれた。

 いずれも富子さんの夫の死を証明するために書かれた。厚生省令に定められた書式で、日付はともに阪神大震災当日の95年1月17日。ただ、死因の欄の内容が違っていた。

 乙1号証の死亡診断書は、入院先の病院の院長が書いた。「直接死因」の欄には「消化管出血」とあり、その原因は「腎不全」とされている。震災とは関係のない自然死だったという内容だ。この診断書を根拠に、芦屋市は「震災と死亡との間に相当な因果関係がない」と判断し、災害弔慰金を支給しないと決定した。

 乙2号証の死亡診断書は、震災当日の朝の当直医が書いた。「直接死因」の欄には「地震による病状の悪化」とあり、その下に「腎不全」と書いてある。震災関連死を認めた内容で、この診断書をもとに富子さんは災害弔慰金の支給を求め、芦屋市を訴えた。

 ■食い違う証言

 神戸地裁での証言によると、院長はあの日、神戸市北区の自宅で地震を感じ、車で裏道を縫って、震災発生の1時間ほど後の午前6時50分ごろに病院に着いた、という。集中治療室では当直医が富子さんの夫に心臓マッサージをしていたが、院長は「もうあきらめよう」と言った、という。

 「ほかのほうが大変だなということを途中で感じていましたし、病院の前にも車で連れてこられている人とか、たくさんおられましたので、もうやめました」

 午前7時、富子さんの夫は死去した。「その場で立ち会っていました」と院長は証言した。

 同じ法廷で、当直医はこれを否定した。

 当直医の証言によれば、地震直後、集中治療室は電源が失われ、人工呼吸器や輸液注入用のチューブは外れ、飛び散っていた。

 「機器類は全部止まっていました。呼吸器も飛んで、離れた場所に行ってたと思います。要するに、すべてのものが倒れていましたので、薬品棚も倒れて、薬のほうは割れて、床に散乱してまして、すごいにおいがたってました」

 富子さんの夫はしばらく自力で呼吸していたが、午前7時ごろ、電気が復旧した直後に当直医が様子を見に行った際にはすでに死亡していた、という。

 弁護士 「証人が午前7時に死亡を確認したときに院長先生は来院していましたか」

 当直医 「いえ、来られてません」

 弁護士 「先生が心マッサージを施行されてる間に、院長先生が、もう止めとこうというようなことをおっしゃったように証言されてるんですけれども、そういうことはありませんでしたか」

 当直医 「ありません」

 弁護士 「そうすると、院長が来院したのは、証人が死亡を確認した後なんですか」

 当直医 「はい」

 二人の医師の証言は真っ向から食い違った。

 ■逆転判決

 裁判所は当直医の証言を信用した。「院長は死亡に立ち会っていたと供述するが、当直医の供述に照らし、院長の供述は採用できない」。一審・神戸地裁も二審・大阪高裁もこう述べた。

 だが、死亡診断書の評価は分かれ、地裁と高裁の判決は揺れ動いた。

 地裁は当直医の死亡診断書を否定的にとらえ、「死亡から5カ月以上も後に原告の要求で作成されたものであり、記載内容も不自然である」と指摘した。

 「震災当時、(富子さんの夫は)いつ死亡してもおかしくない状況にあり、震災がなくても数時間ないし数日のうちに死亡していたことは確実と認められる。したがって、震災があったために死亡したということはできず、震災と死亡との間に相当因果関係を認めることはできない」

 97年9月8日の地裁判決はそう判断して富子さんの訴えを退けた。

 一方、高裁は同じ死亡診断書を肯定的に評価した。「当直医は法廷でその内容を事実と明言しており、信用性は減じない」。98年4月28日、大阪高裁の控訴審判決は、一審の判決と芦屋市の決定をともに取り消した。

 「震災により機器類が停止し、集中治療室が機能していなかったため、通常であれば受け得たのと同様の延命治療の措置を受けることができず、これが原因で震災発生の約1時間後という時期に死亡したもので、震災がなければ、その治療の継続により、なお延命の可能性があり、少なくともその時期には未だ死亡という結果が生じていなかったものと認めるのが相当である」

 「震災がなければ死亡という結果が生じていなかったと認められる以上は、死期が迫っていたか否かは相当因果関係の存否の認定を左右するものではないというべき」

 富子さんの逆転勝訴だった。

 ■最高裁で4年8カ月

 最高裁では口頭弁論は一度も開かれなかった。

 二審判決から4年8カ月後の2002年12月19日、芦屋市の上告を棄却する決定が突然、最高裁から出された。

 訴訟代理人の川合清文弁護士(大阪弁護士会)から富子さんに電話で勝訴の確定が伝えられた。川合弁護士は記者の取材に「もっともっと早く判断をしてほしかった」と最高裁への不満を漏らした。

 「記録はそんなに多くないのだから、集中してやれば、これほどの期間をかけないで結論を出せるはずです。ご主人が亡くなられて、1人だけ残され、行政にも冷たくされ、心細い思いをされたのに、ご本人(富子さん)は本当によく頑張られた」

 ■「死者6434人」で確定

 芦屋公園の中央に「芦屋市 阪神・淡路大震災 慰霊と復興のモニュメント」はある。その石碑の地下に収められた銘板にはそれまで、芦屋市の震災犠牲者として451人の名が刻まれていた。2003年1月16日、富子さんの夫の名を452人目に加えた銘板が収め直された。

 阪神大震災の死者の数はその後、計上漏れが判明し、2005年12月22日に消防庁から出された第108報で一人増え、6434人になった。

 「阪神・淡路大震災について(確定報)」が消防庁から出されたのは2006年5月19日。阪神大震災が発生してから11年余が経過していた。富子さんの夫が最後に認定された阪神大震災の死者となった。

奥山 俊宏(おくやま・としひろ)

 朝日新聞編集委員。
 1966年、岡山県生まれ。1989年、東京大学工学部卒、朝日新聞入社。水戸支局、福島支局、東京社会部、大阪社会部などを経て特別報道部。『法と経済のジャーナル Asahi Judiciary』の編集も担当。
 著書『秘密解除 ロッキード事件  田中角栄はなぜアメリカに嫌われたのか』(岩波書店、2016年7月)で第21回司馬遼太郎賞(2017年度)を受賞。同書に加えて福島第一原発事故やパナマ文書の報道を含めた業績で日本記者クラブ賞(2018年度)を受賞。
 そのほかの著書として『パラダイス文書 連鎖する内部告発、パナマ文書を経て「調査報道」がいま暴く』(朝日新聞出版、2017年11月)、『内部告発の力 公益通報者保護法は何を守るのか』(現代人文社、2004年4月)、『ルポ 東京電力 原発危機1カ月』(朝日新書、2011年6月)がある。共著に『偽装請負』(朝日新書、2007年5月)、『ルポ 内部告発 なぜ組織は間違うのか』(同、2008年9月)、『検証 東電テレビ会議』(朝日新聞出版、2012年12月)など。
 ツイッターはhttps://twitter.com/okuyamatoshi
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