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深掘り

震災法廷

阪神大震災の判例を支えに盛岡地裁で関連死の認定求める

 2014年10月31日午後、盛岡地方裁判所301号法廷の証言台の前に女性(49)は座っていた。

 「いろいろ考えていくうちに、私だけじゃないな、って思いました」

 小川理津子裁判長ら壇上の3人の裁判官を前に、左横の訴訟代理人、在間(ざいま)文康弁護士(36)から提訴の経緯を質問され、女性はそう答えた。

 「傷ついて腹が立った人はもっともっといたと思います」

 その日、「震災関連死」の認定を争う訴訟の第7回口頭弁論が開かれ、原告本人の尋問が行われていた。

 夫(享年56歳)の「震災関連死」を認めず、災害弔慰金を支給しないとする岩手県陸前高田市の決定の取り消しを求め、女性は訴訟を起こした。提訴を後押ししたのは、同じく関連死と認められず苦しむ遺族や、阪神大震災で妻の訴えを認め、夫の震災関連死を認定した判例だった。

▽筆者: 松本龍三郎、奥山俊宏

▽この記事は2015年1月16日の朝日新聞岩手版に掲載された原稿に加筆したものです。

▽関連記事: 阪神大震災6433人目の死者 最高裁決定で

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拡大災害弔慰金の申請で提出した診断書や経緯書を手にする原告の女性=2013年2月、陸前高田市(書類にモザイクをかけています)
 女性は、陸前高田市で夫とリサイクルショップを営んでいた。2011年3月の東日本大震災で、店は津波にのまれ流失。女性の両親は行方不明になった。3月末に遺体で発見された。

 法廷で「そのときの様子は?」と問われ、妻は、「(夫は両親を)とても頼りにしていたので、つらかったと思います」と答える。夫は7歳のときに父を、大学入学時に母を亡くしていた。そのぶん、「私と結婚して、お母さんとお父さんができたことをすごく大事にしてくれていました」

 震災後、妻は収入を得るためアルバイトに出るようになった。一方、夫はほとんど自宅から出なかった。それまで朝昼晩と一緒だった食事も、朝だけになる日が多くなっていく。

 「夫は、夏が終わるくらいには気が失せてきているな。そんな風に思いました」「ストレスはどんどん増していくように思えました」。女性は、震災後の様子を法廷で振り返る。

 生きがいだった店。慕っていた義父母。それらを失い、夫はショックを受けていた。

 震災から半年。店を再開するめどは立たず、将来を見通せない日々が続いた。

 「時間が経つにつれ、収入が得られず、事がうまく進まないと焦ってきたのだと思います。長女が短大に行くことになっていたので学費とか、そういうことがだんだん積み重なってきたと思います」

 11月、夫は心筋梗塞(こうそく)で倒れ、年の暮れに帰らぬ人となった。

 「ご主人が亡くなられた時のあなたの気持ちは」。法廷で代理人の在間弁護士に尋ねられると、女性はうつむき、30秒間、言葉が出なかった。

 「主人とは27年間、一緒だったのですが……。なんでこんなことになってしまったのかな」。静かな法廷に涙声が響いた。

   ◆   ◆

 震災による生活環境の変化やストレスで、持病の高血圧が悪化し、心筋梗塞をまねいた――。提訴する前に2度、女性は市に災害弔慰金の支給を申請した。だが、いずれも「震災関連死」は認められず、不支給の決定が下った。

 2度目の申請から相談相手になっているのが、陸前高田市でたった1人の弁護士、在間さんだ。震災翌年の2012年3月、日本弁護士連合会が過疎地に設ける「いわて三陸ひまわり基金法律事務所」に初代所長として赴任していた。

 在間さんは20年前の高校1年生の時、兵庫県西宮市で、阪神大震災を経験していた。

 1995年1月17日午前5時46分。当時暮らしていたマンションで激しい揺れに襲われ、目を覚ました。

 間もなく、外に出るとあちこちで建物が倒壊していた。父親に連れられ、被害がひどい海側に向かった。

 「3人が中に取り残されている」。民家がつぶれ、屋根が残った状態だった。父親や近所の人と協力して、瓦やしっくいをはがした。道路にはがれきが散乱し、救助の車の行く手を阻んでいた。

 2人は助け出されたが、1人は亡くなっていた。遺体は畳の上に載せられ、運ばれていった。その光景は今も忘れることはない。

   ◆   ◆

拡大盛岡地裁の前に立つ在間文康弁護士=2014年12月19日、盛岡市内丸
 在間さんは、司法修習時代の1年間を岩手で過ごしている。

 月に一度開かれる過疎地での相談会に向かうと、待ちわびた住民が並んでいた。町医者のような活動を目指していた在間さんにとって、やりがいを感じられる場所だった。

 修習を終え、2009年12月から東京の弁護士事務所で働いた。2年間の修行が終われば、地方の公設事務所に移るつもりでいた。移る先が岩手県内に決まりかけていた2011年3月、東日本大震災は起きた。

 震災後、修習時代に岩手でお世話になった岩手弁護士会の吉江暢洋(よしえ・のぶひろ)弁護士にこんなメールを送っている。「東京の弁護士を連れて、何かお手伝いができれば……」。このときはまだ、被災地に移って働くことに踏ん切りがついていなかった。

 新婚の妻と被災地で生活していけるのか、経験の浅い自分が被災者の思いに応えられるのか……、そんな迷いがあった。

 しばらく経って、吉江弁護士から返ってきたメールにはこう書かれていた。「手伝いもありがたいけど、一番は在間にこっちに来てほしい」。期待を込めたメッセージを先輩からもらい、「自分が行かなきゃ」と、気持ちは傾き始めた。

 震災2カ月後、妻を連れて初めて岩手県沿岸部の被災地を訪れた。津波で被災した民家から荷物を運び出す家族の姿があった。その光景を目の当たりにして、ハッと思い当たるものがあった。そしてこう思った。「阪神を経験している自分は(被災地に)行くべき人間だ。ここでいかないと後悔する」

 もう、迷いはなかった。

   ◆   ◆

 女性は2度目の不支給決定を受けてから、訴訟を起こすか迷っていた。そのころ、在間さんが紹介したのが、西宮市の隣、芦屋市の市長を相手に起こされた阪神大震災の震災関連死訴訟だった。

 「私も実は、このころ(近くに)いたんですよ」。自身の震災体験も交えながら、関連死を認めた大阪高裁の判決を説明していった。女性はくい入るように読み込んだ。

 在間さんは言う。「『自分と同じ気持ちの人がいたんだ』と感じてもらえたなら、阪神の話が役立ったのかもしれない」

 2013年11月27日。在間さんが代理人となり、女性は提訴に踏み切った。夫の死から2年が経とうとしていた。(次回につづく

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