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深掘り

震災法廷

「気象庁の津波予報のせいで妻は死んだ」国賠訴訟の行方

陸前高田市、6m予報変更後も3mの放送続ける

奥山 俊宏(おくやま・としひろ)

 2011年3月11日午後2時49分、気象庁は、岩手県沿岸部について「高いところで3メートル程度以上の津波が予想される」と発表した。これを「高さ6メートル」へと上方修正したのは25分後の午後3時14分。しかし、その情報は陸前高田市の市民の多くには届かなかった。その後も、同市は「3メートル」を前提にした放送を市民に流し続けたからだ。そのせいで、妻、幸子(さちこ)さん(当時59)は自宅にとどまり、10メートルを超える大津波の犠牲になった――。大森俊行さん(64)はそう主張して国と市を訴えた。なぜそんなことが起きたのか。市や国に問いただしたいことが大森さんには山のようにあった。一審・盛岡地裁では敗訴したが、控訴し、今後は仙台高裁で検証を続けたいと大森さんは考える。

▽筆者:奥山俊宏

▽この記事は2015年2月18、19、22日の朝日新聞岩手版に連載された記事をもとに再構成・加筆したものです。

▽関連資料: 盛岡地裁判決の全文

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拡大自宅の跡地に立つ大森俊行さん=2月15日午後、陸前高田市高田町で
 それが妻、幸子さんとの最後の会話になるとはそのときは思わなかった。しかし、今は「あのとき津波が来た」「女房は携帯電話を手に持ったまま流された」と思う。
 2011年3月11日、震災発生から40分ほどがたとうというとき、大森俊行さん(64)の携帯にその電話はかかってきた。大森さんは陸前高田市の北隣、大船渡市にいた。
 電話の向こうの幸子さんは「テレビも何もメチャクチャ」と家の中の様子を説明してくれた。「それなのに、あなたは何をしているの? どうして帰ってこないの?」と尋ねられた。大森さんは、車の中にいて、渋滞に巻き込まれている、と妻に説明した。だからすぐには戻れない、と。プツッと電話は切れた。
 電話ごしの幸子さんの声からは津波のことを心配する様子はまったく感じられなかった。家は陸前高田市高田町にあって海から2キロ近く離れている。海辺には高さ5.5メートルの防潮堤がある。だから、「予想される津波の高さは3メートル」との気象庁発表を市の防災行政無線で聞いて妻は安心していたのだろう――。大森さんはそう推測する。現に大森さん自身、家にいれば大丈夫だと思っていたから「逃げろ」とは言わなかった。
 地震発生42分後の午後3時28分、陸前高田の市街地に津波が到達した。高さは10メートルを超えていた。幸子さんら1800人近くが市内で犠牲になった。

 ■幸子さん

拡大生前の大森幸子さん=夫の俊行さん提供
 震災前、大森さんは幸子さんとともに「麺処 なんばんや」という名前の飲食店を家の1階で経営していた。そばなど麺類主体の食堂とカラオケスナックをあわせたような店だった。
 インターネット上には、店がなくなった今も、「店主 奥様とご家族で開いていらっしゃるお店で とてもアットホームな感じです。メニューは600円〜1200円ととてもリーズナブル。おそばは歯応えのある麺で鴨そばがお勧め」といった口コミが掲載されている(注1)
 大森さんは「女房のおかげで評判よかった」と振り返る。
 「俺が遊んでいても一生懸命やってくれた。苦労かけたけど、それでも、女房はついてきてくれた。やさしくて最高だった。自由気ままで好き放題な、こんな俺を愛してくれた」
 そんな感謝の気持ちやねぎらいの言葉を生前の幸子さんに直接伝える機会がなかった。それが大森さんの心残りの一つだ。
 30年以上、連れ添った。幸子さんはよく「温泉でゆっくりしたい」と言っていた。なのに、その、ささやかな夢をかなえてあげられなかった。名づけ親となった孫娘が震災の11日後に生まれた。「孫のしつけとおもりで老後を過ごしたい」と希望していた。なのに、一度も彼女に会うことなく、妻は旅だたねばならなかった。
 生前、「あんたなんて、あたしがいなくなっても、次の日から別の女の人とくっついているんでしょ」と冗談めかして言われたことがある。しかし、今、大森さんは「そんな気持ちになれない」と涙を流す。
 「俺を捨てて三下り半で、いなくなったのなら泣かない。女房に申し訳なくて、女房がかわいそうだから俺は泣く」

 ■市の報告書では

拡大被災当時の陸前高田の市街地=2011年3月14日、岩手県陸前高田市
 市の東日本大震災検証報告書(2014年7月)によれば、震災発生直後の午後2時49分に市の消防本部が受信した気象庁の大津波警報はただちに防災行政無線の拡声機で市民に向けて放送された。しかし、それ以降、気象庁の情報を新たに受信することはできなかった。気象庁は午後3時14分に津波予想高を3メートルから6メートルに引き上げたが、その後も午後3時17分にかけて、市の防災行政無線では「3メートルを超える大津波が予想されます。浸水区域にいる人は、直ちに高台に避難してください」との呼びかけが繰り返された。「6メートル」あるいは、午後3時31分に出た「10メートル」の予報が防災行政無線で伝えられることはついになかった。
 市の検証報告書に引用された証言によれば、「大津波警報(3メートル)の情報で判断し、避難しない人も多数いた」という(注2)。同市は、明治から昭和にかけて3メートルを超える津波に襲われた経験が3回ある。いずれも高田町の中心市街地に津波は届かなかった、とされる。1960年のチリ地震津波の後、高田松原に高さ5.5メートルの防潮堤が2キロにわたって設けられた。だから、「3メートル」の予報により、「避難する必要がない、あるいは建物の2階以上に避難すれば安全と考えた人が多くいたと考えられる」と市の検証報告書には記されている(注3)
 地震発生36分後の午後3時22分、市の防災行政無線は、津波の予想高さに触れず、「市内各地で津波が押し寄せています」と放送し、3時26分には「堤防から津波が越えています」と放送した。直後の3時28分ごろ、陸前高田の市街地全域に津波が到達した。その高さは10メートルをはるかに超えていた。
 結果、市内の犠牲者は1800人近くに達した。津波浸水域の人口に対するその割合「犠牲者率」は10.64%で、岩手、宮城、福島の沿岸37市町村の中でも最悪となった(注4)
 「津波高さ6メートル」の予報を受信できなかった理由について、市の検証報告書は「停電や通信機器の不備」と説明し、「仮に、受信できたとしても、その段階からの避難では、津波が堤防を越流した時刻(午後3時24分頃)から考えて、安全な場所まで逃げきることは難しかった」と弁解している(注5)

 ■提訴への決意

 3月11日夕方、大森さんは、内陸に迂回する道路を通って陸前高田市高田町に戻った。道路が通れなくなり、途中からは歩いた。実家で借りた懐中電灯を手に持って、がれきの上を進んだが、水がたまっていて、家にたどりつけなかった。翌12日朝、夜が明けると、家があったあたりに何も残っていないことが遠くから見て分かった。「うちは全然、影も形もなかった」
 安置所で1千人以上の遺体を見た。似ている遺体があったが、確信を持てなかった。DNA型鑑定の結果を7月まで待って初めて遺骨を引き取ることができた。そのこともまた、大森さんは妻に申し訳なく思う。
 大森さんは早くから提訴を考えていた。「気象庁にだまされた。これは人災だ」と思ったからだ。
 津波で流される前、大森さんの家は、砂浜と松林で有名な高田松原の海岸から2キロ近く内陸に入った国道沿いにあった。あと500メートル、その国道を北に進めば津波から逃れることができた。「女房は登山が趣味で、健脚。高校のときは陸上部だった。3時14分に6メートルの予報を知れば、完璧に間に合った」と大森さんは言う。
 大森さんは「訴訟を起こさないと事実は出てこない」とも思った。検証を進めさせるためにも、訴訟が必要だと考えた。
 当初、大森さんは「1800人のうちだれかの遺族がやるだろう。そしたら加わろう」と思っていた。しかし、震災から3年がたとうとしていた2014年3月、訴訟を起こす人はだれもいなかった。「じゃ、俺しかいない」と思った。「お金がほしいんじゃない。だれもやらないから俺がやるんだ」
 すると、逆に「だれもやらないのなら、なぜ、お前がやるんだ?」と、市内に住む親類の一人から問い詰められた。「恥ずかしくて街を歩けない。訴訟をやりたいのなら、縁を切って、やれ」とも言われた。
 国と市に6千万円の損害賠償を求める訴状をつくった。「正しいことを言うのに弁護士はいらない」と考えて弁護士への依頼は見送った。

 気象庁は、発災直後の段階で、これまでに経験したことのない巨大な大津波が襲来する可能性があるとの警報をすべきであった。14時49分に気象庁から発せられた大津波警報が現実よりも過小な3メートルであったために(中略)多数の市民が高台への避難をせずに、犠牲になった。

 消防署の電源装置や情報機器の設備の整備が、防災計画で定められている基準に及ばず、不十分であったため、停電や断絶を招いたもので、設備に不備があった。そのため、亡き幸子をはじめ陸前高田市民に対して、6メートルの津波警報は周知されなかった。

 陸前高田市には5.5メートルの防潮堤があったため、市民においては3メートルの津波では防潮堤を越えることはないと考えても無理はなかった。亡き幸子は、3メートルの大津波警報が出されていることは知っていたが、3メートルであれば、自宅からの避難は必要ないと考えていたと思われる。6メートルの大津波警報を知っていれば、自宅から高台へと避難して津波被害を避けることができたはずである。

 20万円分の収入印紙を買い求め、訴状に貼った。不法行為に基づく損害賠償請求に関する3年の時効が成立する直前の昨年3月10日、それを盛岡地裁に提出した。

 ■国の説明と反論

 一審の盛岡地裁では判決言い渡し期日を含め6回の口頭弁論が開かれ、原告、被告は、事前に準備した書面を陳述し、主張を交わした。

第1回口頭弁論 4月18日午後1時半
第2回口頭弁論 6月20日午後1時15分
第3回口頭弁論 8月22日午後1時15分
第4回口頭弁論 10月24日午前11時
第5回口頭弁論 12月4日午後2時
第6回口頭弁論(判決言い渡し) 2月20日午後1時15分

 6月20日の第2回口頭弁論で陳述扱いとされた被告・国の準備書面によると、震災発生直後、気象庁はまず、約5秒以内の短い周期の強い揺れを観測する地震計(強震計)の値を用いて「気象庁マグニチュード」を計算した。地震発生3分ほどで計算することができ、速報性に優れている手法だとされる。しかし、マグニチュード8超の巨大地震では、5秒を上回る長い周期の揺れが大きくなる傾向があり、そうした場合、「気象庁マグニチュード」は地震の規模を過小に見積もってしまう短所がある(注6)
 その短所が表れたのが、東日本大震災に関する気象庁の第一報だった。5秒を上回る長い周期の揺れが特に大き

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奥山 俊宏(おくやま・としひろ)

 朝日新聞編集委員。
 1966年、岡山県生まれ。1989年、東京大学工学部卒、朝日新聞入社。水戸支局、福島支局、東京社会部、大阪社会部などを経て特別報道部。『法と経済のジャーナル Asahi Judiciary』の編集も担当。
 著書『秘密解除 ロッキード事件  田中角栄はなぜアメリカに嫌われたのか』(岩波書店、2016年7月)で第21回司馬遼太郎賞(2017年度)を受賞。同書に加えて福島第一原発事故やパナマ文書の報道などを含めた業績で、日本記者クラブ賞(2018年度)を受賞。
 そのほかの著書として『パラダイス文書 連鎖する内部告発、パナマ文書を経て「調査報道」がいま暴く』(朝日新聞出版、2017年11月)、『内部告発の力 公益通報者保護法は何を守るのか』(現代人文社、2004年4月)、『ルポ 東京電力 原発危機1カ月』(朝日新書、2011年6月)がある。共著に『偽装請負』(朝日新書、2007年5月)、『ルポ 内部告発 なぜ組織は間違うのか』(同、2008年9月)、『検証 東電テレビ会議』(朝日新聞出版、2012年12月)など。
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