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深掘り

震災法廷

石巻市立大川小惨事の判決に思う 教員らの行動とリスク認識

加藤 裕則(かとう・ひろのり)

 東日本大震災の津波によって74人の児童と10人の教職員が犠牲になった宮城県石巻市立大川小の惨事で、仙台地裁は10月26日、国家賠償法に基づき、23人の児童の遺族に14億2600万円を支払うよう石巻市と宮城県に命ずる判決を言い渡した。裁判所は、教職員が避難先を誤ったとの判断を下し、核心部分で遺族側の訴えを認めた。遺族側は「不満はあるが、堅いところを裁判所が認めてくれた。これ以上戦うのはつらい」と受け入れる方針を表明すると共に、市・県に対しても控訴しないよう求めた。だが、石巻市の亀山紘市長は判決の2日後に控訴する方針を公表し、県も追随した。結果的に遺族も控訴し、争いの舞台は仙台高裁に移ることになった。この裁判を2年近く取材し、「学校が、行政が、守るべきものは何なのだろうか」という疑問が頭を離れない。

 ■具体的な危険性とは

拡大大川小で犠牲になった子どもたちの写真を手に、仙台地裁に入る遺族たち=10月26日午後、仙台市青葉区、福留庸友撮影
 学校に過失があったかどうかを論じる前提となるのが、津波が学校を襲うことを予見できたかどうかで、すなわち、「予見可能性」の有無だ。原告、被告は徹底的に争った。

 裁判所が注目したのが、石巻市の河北総合支所の広報車の動きだ。広報車は地震発生後、大川小よりも海に近い場所で海岸(北上川河口)に向けて走っていたが、津波を目撃してUターンした。そして、津波の襲来と高台への避難を呼びかけながら大川小の前を通り過ぎた。大川小の教諭もこれを聞いていた。裁判所はこの広報車が大川小の前を通った時間帯を「遅くとも午後3時30分ごろまで」と認定し、「程なくして大規模な津波が大川小学校に襲来し、そのまま校庭に留まっていた場合には、児童の生命身体に具体的な危険が生じることを予見した」と断定した。

 では、その前の時間帯はどうだったのか。午後3時30分より前にも、防災行政無線やラジオ放送で高さ6~10メートルの大津波警報が流れ、校庭にいた教頭も聞いていたという。さらに地域住民や保護者の中には、津波が来るとして避難を促す人もいた。

 ただ、判決は、地震発生の午後2時46分から、午後3時30分ころまでの時間帯について「宮城県全体を対象とした大津波警報しか情報として得られていなかった段階」と一括し、「津波の校地への襲来は、抽象的に懸念される危険の一つ」として、この段階で教職員に予見可能性を求めることはできないという立場をとった。その理由として、学校が海岸から4キロ内陸にあり、県が策定した津波の予想浸水区域から外れていたことや、学校が避難所に指定されていたことも挙げる。

 今回の判決の特徴の一つだが、津波に対する予見性について、児童の生命に危険が生じる度合いを「抽象的なもの」と「具体的なもの」に分けたうえで、具体的なものに出会った場合には、多少、無理をしてでも適切な場所に避難することを求めている。

 確かに防災無線やラジオによる津波警報は宮城県全体を対象にしたもので「抽象的」と言われれば、その通りだ。だが、今回の震源地は宮城県北部、つまり石巻市(牡鹿半島)の沖合だ。石巻の震度は6強で、4以上が160秒も続いたかつてない大きくて長い揺れだった。この異常な大地震に直面した状態で、裁判所は「具体的な危険性」と「抽象的な危険性」という線引きを試みたと言える。原告団からは「線引きの理由が分からない。子どもの命を預かっている立場として、午後3時30分ごろでは、あまりにも遅すぎやしないか」との声もでている。

 ■生き残った先生に責任はない?

 大川小の惨事で、当日現場にいた教職員の中で一人、生き残った先生がいる。裁判所の認定した事実によると、広報車の呼びかけを聞いたこの教諭は教頭に「津波が来ますよ。どうしますか。危なくても山へ逃げますか」と問いかけている。直後にこの教諭は教頭から、校舎2階へ避難することが可能かどうか確認するよう指示を受け、校舎を見回った。戻ると、すでに教頭や児童らが河川堤防近くの空き地「三角地帯」に向けて移動を始めていた。その列の最後尾付近にいたところ、津波が来襲し、その教諭は山に駆け上がり、頭から水をかぶりながらも助かったという。ただ、その後は、津波にのまれた子どもたちを助けようとせず、裏山の尾根を越えて民家にたどりついた。

拡大
 裁判所は、この教諭を除く同小の教員の過失を認めた。「大規模な津波に対する避難場所として不適切」と断じた三角地帯に向かったためだ。

 では、なぜこの教諭の責任が問われなかったのか、判決文には明記されていないが、この教諭が校舎を見回っている間にそれ以外の教諭が三角地帯に移動することを決めたという解釈だと原告団は推定する。

 しかし、同時に原告団は「亡くなった先生たちの責任があるとされ、生き残った先生の責任は問われないのは不自然。判決文にもその辺が明確に書かれていない。証人尋問を認めないで、この判断は理解できない」と批判する。原告団は訴訟で、「真相究明には不可欠」とこの教諭の証人尋問を強く求めてきた。この教諭について、「真実を話していない。なぜ一人助かったのか不自然だ」(遺族の一人)と見ているためだ。

 だが、市は、この教諭の尋問について、病気療養中で心的外傷性ストレス障害(PTSD)があり、「尋問は許されない」とする医師の所見をもとに反対し、裁判所もこれを認めていた。

 原告側はまた、この教諭が救助活動をまったくしなかったことにも違法性があると訴えた。が、裁判所は「いかなる救助活動を行おうとも、救命救助の可能性は極めて乏しかった」として責任を否定している。原告の悔しさはここにある。実際に先に山に登っていた住民が児童を含む数人を救助した事実があるためだ。「災害で教職員は子どもたちの救出活動をしなくてもいいという判決だ」と遺族は強く反発する。

 ■震災前、津波後については原告の完敗?

拡大遺族や石巻市関係者らとともに、裁判官が裏山の斜面を歩いた=2015年11月13日午後、石巻市釜谷山根、福留庸友撮影
 今回の裁判では、津波来襲直前の学校側の対応だけでなく、震災発生前の備えと、そして津波来襲後の対応についても原告団が学校側の過失を訴え、争点となった。

 原告は、学校の地震発生時の危機管理マニュアルに着目し、「不十分なまま放置した」と改訂の必要性を主張した。だが、裁判所は大川小が避難所として指定されていたことなどを理由にその主張を退けた。原告団はまた、危機管理マニュアルが2010年度に改訂された際、「地震発生時の危機管理」という表現が「地震(津波)発生時の危機管理」という表現に突然変えたことを指摘した。つまり、「津波」が新たに挿入され、文中にも「津波の発生の有無を確認し第2次避難所へ移動する」との一文が盛り込まれたことを重視し、原告団は、学校側に津波が来るという認識はあったと訴えたが、裁判所は判決でこれに対し、直接、論評することはなかった。

 津波後の市の対応についても、裁判所は原告側の言い分を認めなかった。今回、原告は積極的に、「事後的不法行為」を争点にした。石巻市教委が、都合の悪い事実を打ち消すかのように児童らから聞き取ったメモを廃棄処分に

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加藤 裕則(かとう・ひろのり)

 1965年10月、秋田県生まれ。岩手大人文社会科学部卒業。89年4月に朝日新聞社入社。静岡支局や浦和支局(現さいたま総局)などに赴任した後、99年東京本社経済部員。その後、名古屋本社経済部員、青森総局次長、大阪本社経済部員。2011年4月から14年9月まで2度目の東京本社経済部員で、金融情報面(株式面)や社会保障取材班を担当した。
 経済記者としては、これまで通産省(現・経産省)、鉄鋼業界、トヨタ自動車(名古屋)、関西空港などを取材してきた。通産省クラブ時代から、コーポレート・ガバナンスや会計監査について自主的に取材を重ね、朝日新聞のオピニオン面に掲載される記者有論などで論じてきた。2014年9月から石巻支局員として東日本大震災からの復興の過程を取材。2018年4月から東京本社の経済部員として財界などを取材している。

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