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深掘り

巨悪追及 佐渡賢一が語る

自民党支配を壊す佐川急便事件を摘発するも世論の非難を浴びて左遷

証券取引等監視委 前委員長インタビュー③ 東京佐川急便事件

村山 治(むらやま・おさむ)

 仕手集団「光進」グループに対する捜査の中で、別の大事件が見えてきた。戦後日本の政治システムを根底から揺るがした東京佐川急便事件である。
 検事として36年、証券取引等監視委員会委員長として9年。リクルート事件やオリンパス粉飾決算事件など経済事件の捜査・調査の最前線にいた佐渡氏にインタビューした。朝日新聞経済面の連載「証言そのとき:不正に挑んだ45年」に大幅に加筆した原稿の第3回では東京佐川急便事件、金丸事件などを取り上げる。(敬称略、肩書は当時)

 ■竹下政権樹立の陰で蠢いた右翼と暴力団

 ●ほめ殺し

拡大記者会見する金丸信・自民党副総裁=1992年8月27日、東京・永田町の自民党本部で
 土地と株の財テクに浮かれて企業の脇が甘くなっていた。中でも、大手運送会社「佐川急便グループ」の中核企業、東京佐川急便の渡辺広康社長は広域暴力団稲川会に数百億円に上る資金を流出させていたことがわかった。佐渡賢一は特捜部副部長に昇進し、特別背任容疑で本格的にメスを入れた。

 紙切れ同然のゴルフ場会員資格保証金預かり証で10億円単位のカネを出した企業のひとつが東京佐川急便だった。内偵すると、同社は数千億円の負債を抱えていることもわかった。渡辺氏は、株の仕手戦でしばしば名前が取り沙汰され、また、政界のタニマチとしても有名だった。東京佐川のカネが政界や暴力団系企業に表裏で流れていることが疑われた。

 何しろ、資金流出の規模が桁外れだった。どこから手をつけていいか分からなかった。東京佐川急便を傘下に抱える佐川グループに渡辺氏ら東京佐川経営陣に対する特別背任の告訴状を出してもらい、カネの流れと人脈を仕分けした。

 (1)東京佐川経営陣の暴力団がらみの背任事件、(2)政界への資金提供、(3)それ以外の背任事件の3ルートに整理できたのは、平成3年(1991年)も暮れに近かった。最初に着手したのは(3)の事件だった。

 東京地検特捜部は翌1992年2月、渡辺と東京佐川急便元常務取締役、不動産会社社長ら4人を特別背任容疑で逮捕した。債務保証や融資で不正に流出させたカネは約795億円に上った(起訴額)。いずれも判決が確定。背任額は707億円と認定された。

 さらに、特捜部は、警視庁などと協力し、同社から広域暴力団「稲川会」系企業に同様の手口でカネを流出させた特別背任罪で渡辺を摘発した。特捜部は裏付けのとれた157億円を起訴したが、同社から稲川会に流れた資金は数千億円に上るともいわれた。

 この稲川会への資金流出の動機が問題だった。竹下登首相を誕生させた1987年の自民党総裁選で、竹下は右翼の日本皇民党から執拗なほめ殺し攻撃を受け、手を焼いた。竹下の後ろ盾の政界のドン、金丸信副総理は、見かねて渡辺経由で稲川会会長の石井進にほめ殺し封じを依頼。皇民党は、竹下が「政界の恩人」である田中角栄元首相の自宅に総裁選出馬の挨拶に行くことを条件に攻撃をやめた。渡辺はそれが石井への借りとなり、資金提供を余儀なくされていたのだ。

 警視庁でも知能犯を扱う捜査二課や暴力団事件を扱う捜査四課が、東京佐川急便の資金流出事件を内偵していた。(1)の事件に着手する直前、捜査四課長が「暴力団がらみの背任事件なので合同捜査にさせてほしい」と申し入れて来た。

 すでに、金丸氏が、竹下氏に対する右翼のほめ殺しを稲川会に頼んで封じ込めた図式が見えていた。警察庁や警視庁のトップ官僚は自民党の国会議員に転身する例も少なくなく、政治との距離が近い。特に大物政治家がからむ話になると、最初から腰が引ける印象があった。

 「今はいえないけど、警察の扱えるような話でなくなるよ。それでもいいのかい」と話したが、「ぜひやらせてほしい」という。ならば、と、渡辺氏を含む関係者の逮捕状の執行を警視庁に任せ、取り調べはこちらでやった。警視庁捜査四課長は警察庁長官を何人も輩出している警察キャリアのエリートコースのひとつだが、その四課長は、なぜか、あまり偉くならず、皇居を警備する皇宮警察本部長で退官した。

 ●削られた冒頭陳述

 竹下政権樹立の陰で、政界のドンといわれた大物政治家が、暴力団会長に頼んで右翼の攻撃を封じ込めてもらい、それが原因で暴力団側に口利きをした企業が暴力団にカネを垂れ流すことになった事実が明らかになった。とんでもない話だった。

 ほめ殺し封じそのものは違法行為ではないが、「背任の動機」として検察側冒頭陳述の草稿に余すところなく書いた。記述は4、5ページに及んだ。

 最高検に陳述書の草案を上げた。最高検の担当検事から「これでやれ」と下りてきた草稿のその部分には朱がまったく入っていなかった。

 「さすが最高検。太っ腹」と部下と喜びあったが、よく見ると、小さな書き込みで「その部分は全文削除」となっていた。はい、そうですか、というわけにはいかない。政界の反発を恐れて自己規制しているのではないか、と現場はいきり立った。

 五十嵐紀男特捜部長が、粘り強く最高検と掛け合ってくれた。結局、政治家名は匿名とされ、全体で数行に削られたが、事実の粗筋は残ることになった。マスコミはそれを根拠に、政権作りに暴力団が深く関与した「政・業・暴」癒着の図式を大きく報道した。

 特別背任罪に問われた渡辺の初公判は1992年9月22日、東京地裁で開かれた。検察側は冒頭陳述の中で、「かねて交際のあった政治家が右翼の活動に苦慮していることを知り、稲川会の石井進前会長にその活動中止を要請したことが、石井前会長系企業への不正融資の動機の1つになった」と指摘した。朝日新聞などマスコミ各社は、「政治家、右翼団体の名前は伏せているが、その政治家が金丸信であり、『苦慮していた右翼活動』が1987年の自民党総裁選での竹下に対する日本皇民党の攻撃を指していることは明らか」として実名で報道した。

 今から考えたら、背任事件の動機だからそこまで書く必要はなかったかもしれない。しかし、現場からしたら、捜査が解明しない限り、表に出てこないような事件の真相、歴史的事実をえぐり出したのだから、法廷で明らかにしたかった。

 竹下は、所属していた田中派を事実上、乗っ取ったといわれ、田中側とは断絶状態だった。竹下は総裁選出馬直前、田中側に出馬の挨拶に行きたいと申し入れたが断られ、挨拶はあきらめると田中側に告げていた。ところが、その翌朝、突然、田中邸に行き、門前払いをくった。

 竹下氏のその行動は、多くの政界関係者の間で謎とされていた。その理由がわかった。

 削られはしたが、これだけあれば、分かる人は分かると得心した。最高検もよく折れてくれた。「管理」が厳しい最近の最高検なら絶対折れないのではないか。数行残ったのが、検察にとっては「歴史的事件」だったといえるのかもしれない。

 ■ドンの5億円ヤミ献金事件

 ●政治献金リスト

 渡辺は不動産投資などを利用して数十億円の裏金を作り、政界にヤミで献金していた。渡辺の背任の共犯で2月に逮捕した不動産会社社長が、渡辺の政界資金づくりのキーマンだった。この社長と渡辺の供述で、政治家10数人のヤミ献金リストができた。

 東京地検特捜部が東京佐川急便事件の捜査中に作成し、朝日新聞が入手した「渡辺広康の政治家への現金交付状況一覧表」(92年5月27日現在)によると、渡辺は、首相経験者を含む12人の政治家に対し19回にわたり総額23億6千万円のヤミ献金を行っていた。

 政治家への贈収賄を疑った。渡辺氏の取り調べ担当には、ベテランの吉田一彦検事を充てた。特捜部の平成3年(91年)末の忘年会か翌4年(92年)の新年会かで、吉田検事にそっと「おもしろい話があるんだ。やらねえか」と打診したら、「やる、やる」と乗ってきた。

 渡辺氏は取り調べに対し、淡々と政治家への資金提供を供述したが、供述調書の作成に応じたのは、このリストの中で金丸氏に対する5億円と金子清新潟県知事に対する1億円だけだった。それも、受け取った側が認めた後だった。

 渡辺が巨額のカネを政治家に献金したのは、東京佐川急便の社長の座から放り出されるのを怖れ、そうならないよう後ろ盾になってもらおうとしたからだった。東京佐川急便を傘下に持つ佐川グループを一代で築いた佐川清会長は、グループの絶対権力者で、政界や暴力団に人脈を持ち、同郷の田中角栄元首相のスポンサーでもあった。乱脈経理が発覚して佐川グループから追放されるのを恐れた渡辺は、佐川に対抗するため、金丸ら有力政治家に近づき、ヤミ献金をしていたのだ。

 首相経験者や金丸氏については、立件の意欲が湧かなかった。金丸氏は自民党副総裁として建設利権の調整などで実力を発揮していたが、渡辺氏からヤミ献金を受けた当時、閣僚など政府の要職には就いておらず、国会質問などもしていなかった。金の授受はあっても職務権限がないと、贈収賄罪は適用できない。贈収賄での摘発は最初から無理だったのだ。

 政治資金規正法違反の疑いはあったが、当時の政治資金規正法は一人の政治家が複数の政治団体を設立することを認めており、いくつもの団体に分けて受け取ったり、政治団体の間で「寄付」をやり取りされたりすると、その帰属を立証するのが難しかった。さらに、政治団体への帰属を特定できても、立件対象になるのは会計責任者。会計責任者の多くは秘書が務めており、秘書が親分の政治家との共謀の事実を自白しない限り、政治家の摘発はできない。秘書が親分と共謀して収支報告書に虚偽の記載をしました、などとしゃべるはずもない。そのため、意欲がわかなかったのだ。

 リストのヤミ献金の中で、刑事事件にできそうだったのは、金子知事への1億円だけだった。金子知事のケースは、県知事選の運動資金として献金を受け取っており、県の選挙管理委員会に選挙資金を扱う確認団体として届けた政治団体への帰属と特定できた。しかも、収支報告書を実際に作成したのは自民党新潟県連事務局次長だった。政治団体の会計責任者という「身分」に関係なく、実行者は虚偽記入罪の処罰対象になる。そのため知事らをその共犯として事件を組み立てることができたのだった。

 金子と陣営幹部に執行猶予付きの有罪判決を言い渡した1994年10月25日の新潟地裁の判決は、金子が、事務局次長が作成した虚偽の報告書について陣営幹部から説明を受け了承した事実を認めた陣営幹部らの供述調書に基づき、「政治資金収支報告書を作成した時に、前知事は記載内容の詳しい説明を受け、『これで結構です。ご苦労さんでした』と了承した」と述べ、共謀の成立を認めた。

 ●献金報道を受けた金丸氏の「先行」自白

 佐渡が知事立件に向けて捜査を進めていた矢先の92年8月22日、朝日新聞が、金丸に対し5億円の闇献金をした、と渡辺が供述したとの事実を報道した。

 金丸氏は数日後に記者会見を開き、あっさり受領を認めたうえ、その時期も時効にかかっていないことを明らかにした。これには驚いた。

 8月27日の記者会見では、竹下派事務総長の佐藤守良が金丸に代わって金丸作成のメモを読み上げた。メモの要旨は以下のようなものだった。

 実は平成2年(90年)の総選挙の事前に、渡辺さんから献金の申し出があったので、ご辞退申し上げたわけだが、数週間たって私の秘書から渡辺さんが事務所へ5億円届けられたと報告を受けた。私はご辞退申し上げたのに、と思いながら、多額であるところから、わが同志への陣中見舞いだと認識したところだ。(略)自由民主党に多大なご迷惑をおかけしたことをおわびし、先ほど副総裁の職を辞する届けを提出した。また、経世会の会長も辞する決意だ(略)

 朝日新聞の記事は、渡辺は「89年6月に渡した」と供述した、としていた。それだと92年8月時点では、政治家である金丸本人の違反は3年の時効が完成しているが、金丸はその時期が90年2月の総選挙の「事前」だと明らかにした。「事前」は「直前」と解される。それだと、時効が来るまでに時間があることになる。

 朝日新聞の記事は、時期を特定していたが、実は、渡辺氏は、その報道の時点では、カネの授受の時期や帰属について漠然とした供述しかしていなかった。5億円の授受も、1回か2回かも曖昧だった。

 金丸氏本人が受け取った、というような言い方をしたのに注目した。当時の政治資金規正法は、1個人から1人の政治家に対する年間150万円を超える寄付を禁止している。もし、金丸氏本人が受け取ったのが事実なら、寄付の量的制限違反に当たる可能性があった。容疑が浮かんだ以上、捜査しない理由はなかった。

 ●上申書決着

 特捜部は金子知事の捜査を先行し、起訴できるめどが立った。佐渡は、金丸の金庫番といわれる秘書の生原正久の聴取に踏み切った。金丸の弁護人の弁護士は、宇都宮地検の三席検事時代に仕えた検事正だった。

 検事正時代は積極的な捜査方針の人で、かわいがってもらった。生原氏の呼び出しをかけるとその弁護士が「どうなんだ」と接触してきた。「真実はひとつ。秘書に正直にしゃべればいい、と言ってください」と言った。

 生原氏が「自分の判断でカネを受け取った」と供述したら、そこで終わりだった。生原氏は、金丸氏の政治団体群の実質的な会計責任者だった。秘書の虚偽記載でしかなくなる。金丸氏に判断を仰ぎ、その上で受け取った、と供述してはじめて政治家本人が受け取ったと認めることができるのだ。

 生原氏は、渡辺氏から5億円献金について、金丸氏の了解を得て渡辺氏から金丸事務所のあるビルの地下駐車場でカネを受け取り、事務所に運んだ、と供述した。

 生原氏は、弁護士のアドバイスもあったのか、正直にしゃべった。渡辺氏の供述とも符合していた。しばらくして金丸氏本人が受け取ったとなると、事件になってしまう、ということに気づき、「秘書である自分の判断で受け取った」と供述を変えてきた。電話で弁護士からも金丸氏の立件を見送るよう申し入れてきたが、「渡辺供述もあって容疑は固まっている。もう無理です」と断った。

 検察側が作成した生原の最終的な供述調書の概要は以下のようなものだった。

  • 秘書は90年1月16日ころ、渡辺から現金5億円を預かり、金丸の了解を得てこれを金丸の政治活動に関する寄付として受け入れた。
  • 5億円は金丸からさらに金丸の指定団体で秘書が代表者をしている「新国土開発研究会」に寄付された。
  • その後同月末ころまでの間にその5億円を竹下派(経世会)所属の総選挙立候補予定者を中心とする立候補予定者ら約60人にその政治活動の資金として配布し尽くした。
  • その金額は、選挙区の情勢、当選回数、金丸氏との親しさの程度などに応じて500万円から2千万円位の額とし、秘書が金丸の面前などにおいて各立候補予定者本人に手渡した。

 これに対し、生原は筆者のインタビューに対し、カネの授受の場面について、以下のように語った。

 ある日、親父が私にこう言った。

 「生原な、金丸信も偉くなったもんだぞ」

 「何ですか」と聞き返すと、「おれにな、10億円献金したいという人がいるんだよ」と。

 前の晩、親父は渡辺さんと会食していた。「その人」は渡辺さんだな、と思った。

 「10億ですか」と問い返した。金丸事務所はそれまでも選挙などの節目で大きなカネを扱うことはあった。しかし、バブルの時代とはいえ、個人が10億円の献金をするというのは前代未聞だった。

 親父は、少しは自慢したい気持ちもあったのだろう。外の人には言えないから、私にそっと話したのだと思う。

 親父は、「そんな気遣いはご無用に、と断っておいた」とも言った。

 渡辺さんから事務所(千代田区永田町、パレロワイヤル永田町6階)に電話がかかってきたのは、それから2週間ぐらいたったころだ。

 「いまからパレの下に行きますから、降りてきてくれませんか」

 「何ですか」

 「聞いてますでしょ、先生から」

 親父に約束したカネの半分(5億円)を運んでくる、という話だった。

 そりゃ、冗談話として聞いてはいるが、実際に持ってくる、とは思っていなかった。

 「いや、話は聞いてはおりますが、お断りした、のでは」といったが、渡辺さんは「とにかく行きますから、下に降りてきてください」という。

 そのとき、親父は上の部屋(同ビル11階の事務所別室)で麻雀をしていた。急いでその部屋に行き、親父の耳元で、渡辺さんから現金を持ってくるとの電話があったことを報告した。

 親父は小声で、

 「だめだな、弱ったな」

 「かといって持ってくる、というのをどうしようもできない。ひとまず、預かっとけや」と言った。

 それで、地下の駐車場に1人で降りて、車で乗り付けてきた渡辺さんから現金5億円の入った紙袋3つを預かり、台車に乗せて6階の事務所に運んだ。

 (「法と経済のジャーナル Asahi Judiciary」2012年9月28日掲載「金丸事件:特捜部長と金庫番が語る20年目の真実」

 金丸氏側は、弁護士と対応を協議した。金丸氏の判断で受け取ったという客観的な事実は動かない。量的違反の最高刑は罰金20万円。微罪だ。ならば、それに応じるしかない、と決断した。容疑の確認をするため金丸氏本人から取り調べをしたい、と弁護士を通じて折衝したが、金丸氏は拒み、上申書の提出なら応じると言ってきた。

 金丸氏の関係先を捜索することも検討したが、そこまでやることはないだろう、との最高検の判断で見送った。結局、金丸氏が容疑事実を認める上申書を特捜部に提出し、取り調べ抜きで略式処分にすることで落着した。

 「略式手続きに応じる」との本人の意思確認のため金丸さんに副部長室に電話してもらった。弁護人を副部長室に呼んでかかってきた電話の主が金丸氏本人だと確認してもらい、受話器をとった。「事実を認め、略式手続きに応じます」。テレビなどで聞き覚えのある声だった。その間10秒余り。特に感慨はなかった。

 9月28日、特捜部は金丸を略式起訴。金丸は20万円の罰金を支払い、衆院議員を辞職した。同じ日に、金子知事を渡辺から受けた1億円のヤミ献金を隠すなど虚偽の政治資金収支報告書を作成した政治資金規正法違反で在宅起訴した。金子は一審の新潟地裁で禁固1年、執行猶予3年の判決が確定した。

 ●黄色いペンキ

 金丸氏に対する取り調べ抜きの上申書決着は間違っていなかったと思う。金丸氏側に配慮した訳ではない。金丸氏は、容疑そのものは認めていた。証拠隠滅や逃亡の恐れもないから、逮捕する必要はなかった。へたに家宅捜索すると、市民に「金丸逮捕」の間違った期待を抱かせてしまう恐れがあった。

 世の中の受けとめ方ががらりと変わったのは、朝日新聞に、取り調べをしなかったことを批判する佐藤道夫札幌高検検事長の投書が掲載されてからだ。

 検察幹部が、捜査の中身も知らないで、その手続きを批判するのか、と驚いた。しかし、世間では、組織の内部でさえ批判があるのか、やはり、検察のやっていることは、おかしいんだ、ということになった。

 「不公平」「強い者に弱い検察」との抗議が検察に殺到し面食らった。検察庁舎の玄関の石の看板には黄色いペンキがぶっかけられた。

 取調べ云々はさておき、1億円もらった金子知事は、刑事被告人として法廷にひっぱり出されるのに、5億円もらった金丸氏は20万円の罰金で済み、のうのうとしている。誰が見ても、不公平だと思う事実があった。政治資金規正法の規定がそうなっているのだから仕方がないんです、といくら説明しても、世間の理解を得るのは難しかった。

 政府から政党に権力が移っていた。金丸氏がその象徴だった。公務員としての職務権限がないから、金の授受ははっきりしてきていても、贈収賄事件として掬いとれない。適用するとしたら、政治資金規正法しかない。しかし、当時はほとんど「ざる」法で使い勝手が悪い。金丸氏の5億円ヤミ献金事件のような話は、それまで検察が乗り出すような話ではない、として闇から闇に葬られてきたのが、検察捜査の実態だった。

 金丸側が個人で受けた事実を認めたため、検察はそういう事件に「半歩」踏み込んで立件した。検察は批判を浴びたが、それを機に政治資金規正法の改正が進んだのも事実だった。

 改正法は、政治家の「財布」となってきた政治団体を資金管理団体一本にして、献金の帰属をはっきりさせた。それまでに比べて一定の前進ではあったが、相変わらず、会計責任者が「主役」のままで、政治家は「安全地帯」に置かれた。情報開示を担保して政治家に対する国民の監視を強化するという法の目的からいっても、決して、整合性のある改革とはいえなかった。

 ●逆風

 弱り目に祟り目。92年11月5日

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村山 治(むらやま・おさむ)

 徳島県出身。1973年早稲田大学政経学部卒業後、毎日新聞社入社。大阪、東京社会部を経て91年、朝日新聞社入社。金丸脱税事件(93年)、ゼネコン事件(93,94年)、大蔵汚職事件(98年)、日本歯科医師連盟の政治献金事件(2004年)などバブル崩壊以降の政界事件、大型経済事件の報道にかかわった。
 著書に「特捜検察vs.金融権力」(朝日新聞社)、「市場検察」(文藝春秋)、「小沢一郎vs.特捜検察、20年戦争」(朝日新聞出版)、「検察: 破綻した捜査モデル」(新潮新書) 。共著に「ルポ 内部告発」(朝日新書)、「田中角栄を逮捕した男 吉永祐介と 特捜検察『栄光』の裏側」(朝日新聞出版)。

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