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深掘り

オピニオン

日本の「縦割り法学部」へようこそ 分断された専門の弊害

Stephen Givens(スティーブン・ギブンズ)

日本の縦割り法学部へようこそ

 

外国法事務弁護士・米NY州弁護士
スティーブン・ギブンズ(Stephen Givens)

拡大Stephen Givens(スティーブン・ギブンズ)
 外国法事務弁護士、米ニューヨーク州弁護士。ギブンズ外国法事務弁護士事務所(東京都港区赤坂)所属。
 東京育ちで、1987年以降は東京を拠点として活動している。京都大学法学部大学院留学後、ハーバード・ロースクール修了。
 日本企業に関わる国際間取引の組成や交渉に長年従事している。

 いわゆる“ランクの高い”日本の4年制大学で私は15年間学生たちを教えてきたが、「刑事と民事はどう違うか」、「憲法と普通の立法はどう違うか」といった基礎的な問いを投げかけたとき、学生たちから何の反応もないことに、もはや衝撃を受けることはなくなった。

 思うに最上級の大学に入学するということは、平均以上の知識や勉強のスキル(少なくとも試験に合格するためのスキル)を身につけているということだ。大学3年生、あるいは4年生までには、刑法、種々の民法、そして憲法の授業をすでに履修しているにもかかわらず、法制度はどのように機能しているのかという最も基礎的な質問に、なぜ彼らはあんなにも困ってしまうのだろう。

 この問題を考えるとき、私はよく「群盲象を評す」というヒンドゥー教のたとえ話を思い出す。「象」とよばれる奇妙な動物が町に連れられてきた。目に障害を持つ人たちが、その動物が一体どんなものなのか、それぞれ手で触れて確かめようとする。一人は象の胴体に触れて「これは大きな蛇だ」と言い、ある者は象の耳に触れて「これはうちわのようなものだ」と言う。またある者は象の足に腕をまきつけ「これは木だ」と言う。

 日本の大学の法学部に入学する学生たちは、こんな具合に履修する。つまり、阿部教授の民事訴訟法の授業、鈴木教授の国際私法の授業、そして山田教授の環境法の授業をとる。ヒンドゥー教のたとえに戻るが、4年の後に学生たちは象の胴体、象の耳、そして象のまつ毛ほどの細かな何かをそれぞれ別々の授業で学ぶが、悲しいことに学生たちは結局生きた象がどんなものなのかを学ぶことはできない。ましてや象がどのように生き、どのように呼吸するのか、そしてどのように食物を消化したり、子を産むのかなど説明することはできないだろう。

 日本の大学の法学部は孤独でとても静かなところだ。阿部先生、鈴木先生、山田先生はそれぞれ異なった専門分野を持ち、お互いに知識や意見の交換をはかることはない。同じ学内にいても学問という面において互いに関わることなく、個々の専門分野の中にとどまっている。キャリアを磨くために専門的な論文を書き上げる。場合によっては民事訴訟法、国際私法、環境法などの他の専門家との学会に出席することもあろう。

 言うまでもなく、阿部先生、鈴木先生、山田先生たちは、学生たちに何をどのように教えるかについて互いに議論することはない。それをすることは他人の特権的な領域を無礼に侵すことになるからだ。民事訴訟法の教授が環境法の教授にいかにその授業を教えるかを差し出がましく伝えるなんてとんでもない。逆もまたしかりだ。その上、一部の教授にとって教えることは退屈で、報われない面倒なことで、居眠りしている学生たちで埋まった教室で毎年同じ内容の授業を行うことなのである。阿部先生、鈴木先生、山田先生たちが個々に教えているものを、互いに協力してコース全体としてより素晴らしいものにしていこうという気はあまりない。

 私がハーバード・ロースクールの1年生だったのは40年も前のことだが、私も他の学生たちも、日本の法学部の学生たちとは違い、Contracts(契約法)、Torts(不法行為法)、Property(財産法)、Criminal Law(刑事法)といった1年次の必修基礎科目は、コモン・ローという大きな枠組みの中ですべて相互に関連していることにすぐに気づかされた。日本の大学の法学部と違って、アメリカのロースクールは、学生たちと教授陣が互いの専門分野を超えて議論をする活気に満ちた知的な舞台なのである。良いアメリカのロースクールを卒業した人は、“Contracts”や細々とした法規を集めた自給自足的なその他の法律を学ぶのではなく、個々の法律の科目や分野を超えた知識、スキル、そしてツールにあてはめていくことで、法律の問題をどのように分析、議論し、そして解決に導くのかを学ぶのである。

 多くのアメリカのロースクールの学生たちは卒業までに“弁護士のように考える”ことを学ぶ。他方、日本の大学の法学部の卒業生たちは果たしてそれを学んでいるのだろうか。 “弁護士のように考える”ことが実際のところ何を意味しているのか、そもそも教授たちがわからないのである。一部の例外を除いて先生たちは実社会で弁護士業務の経験がないのである。日本の大学の法学部の募集要項やウェブサイトにはよく“リーガル・マインド”を鍛える、と書かれているが、日本の現実の法律の教育に詳しい人たちは、この主張が誇張であることを認めている。

 私はコーポレート・ローヤーとしてもう1足のわらじを履いているが、クライアントのためにより良い仕事をする際には、実際の諸問題を解決するための総合的なアプローチが求められる。現実社会における複雑な論争や取引は、個々の法規にあてはめることだけでは解決できないのだ。良い弁護士はまずジェネラリストでなければならない。患者と向き合ったときに、患者の体のひとつの臓器、あるいは体の一部分だけを見るのでなく全体を見ることのできるのが良いドクターであるのと同じように、である。すべては相互に関連している。

 豊かな教養人は全てがつながっていることを理解し、予期せぬつながりを見つけることに喜びを感じさえする。この基準で考えると、日本の法学部の教授は学生たちに、豊かな教育を授けたとは言えないだろう。これからの法学部の学生たち、そして彼らのご両親は、日本の大学で法学を専攻することの知的な面での価値、そしてキャリアを考える上での価値について注意深く考えた方がよいのではないか。これは私からの切実なアドバイスだ。私が教える学生たちの多くは、大学での授業が退屈で授業を通して学んだことをほとんど覚えていないとためらうことなく認めている。

 数年前のあるとき、私は教鞭をとる大学で、法学部におけるいわゆる分断の問題について控えめな規模で何かをしてみようと決意した。私は英語で教える科目のコースについて、私と同じく英語で教える科目を担当する学部の先生たちと協議、協力してコース内容をコーディネートすることを提案した。私はスズメバチの巣をつついてしまったことをほどなくして知った。数人の先生方はご親切にも私の提案は“理想”であって、“非現実的”過ぎると教えてくれた。他の先生方は彼らの“独立した領域”に対する侮辱的な挑戦ととらえ、教授会で私の提案への投票をさせぬよう激しく抵抗した。結局法学部は、学部内でそれぞれの教授や委員会が互いに干渉することなく、各自のコースカリキュラムを決定する“権利”があることを再確認したのである。

 縦割り問題はもちろん法学部に限ったことではない。大学全体での問題である。法学部と経済学部は互いに見知らぬ者同士、それぞれ別の世界に住んでいる者同士のようなもので、この問題は大学の外でも同様だろう。同じ現象は日本の企業、霞が関、そして永田町にも深く根付いている。

 コンセンサスを得ることや他者と関わっていくことは、どこのコミュニティでも、どんな国においても難しい。この難しさを避ける簡単な方法は、何でも自給自足できてしまう村を作って、すべて自分たちで決めてしまうことだ。しかしそんな村ではより大きく普遍的な問題に立ち向かったり解決したりすることはできない。ましてや日々変わりゆく複雑でグローバルな環境の中、日本の若者にいかによい教育を授けられるかという重大な問題となればなおさらだ。独りよがりなばかりでは、迫り来るグローバルな津波を克服する解決策にはならない。

Stephen Givens(スティーブン・ギブンズ)

 外国法事務弁護士、米ニューヨーク州弁護士。ギブンズ外国法事務弁護士事務所(東京都港区赤坂)所属。
 東京育ちで、1987年以降は東京を拠点として活動している。1976年から77年にかけて京都大学大学院に留学した後、1982年にハーバード大学ロースクール修了。現在、上智大学法学部教授。日本企業に関わる国際間取引の組成や交渉に長年従事している。国際間M&Aから、コーポレート・ガバナンス問題、民間・公的融資、戦略的提携、合弁事業などに経験を持つ。

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