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調査・検証

連載小説 ・ 飛ぶボール疑惑

連載小説4回裏:「この女性と一緒なら何かが変わるかも」と思ったとき

4回裏 調査委員会

滝沢 隆一郎(たきざわ・りゅういちろう)

    3

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 どれくらい時間がたったのだろうと、中島は思った。白い天井がぼんやり見える。身体を起こそうとして、背中に強い痛みを覚え、苦悶の言葉がもれた。

 「気がつかれましたか。無理なさらない方がよろしいです」

 近寄ってきた木村亜矢子が、眉を少しひそめて心配そうに中島の顔をのぞき込むのがわかった。中島の位置から、ブラウスの胸元深く見えそうになり、中島はあわてて視線をそらした。

 「ここは球場の医務室です。医師の話では、背中の筋肉にボールがあたった軽い打撲で、骨に異常はないそうです」

 「すっかり迷惑をかけてしまいました」

 「いえいえ、私どもの方こそ、注意が足りませんでした」

 中島はスーツ、ワイシャツを脱がされ、ジャージを着せられていた。痛む背中には大きな湿布が貼ってあるらしいことも感触でわかった。

 「今何時ですか」

 「えっと、7時を過ぎたくらいかしら」

 「そうすると、試合中ですね」

 中島が室内を見回すと、高い位置にある場内用モニターが試合の様子を映していた。音声は消してあるようだ。

 「ベイライツはどうですか」

 「全然だめです。まだ3回裏なのに、今日も0対4で負けています。先発のカーペンターは調子が悪くて、今代打が出されたところです」

 今季10勝をあげている右投げの外国人投手だ。中島は背中にボールが当たった後に一瞬目が合ったエースの江口史隆のことを思い出した。当たったのは偶然ではなくて、誰かが故意に中島を狙ったのだろうか。果たしてそれは江口が投げたのだろうか。

 どうして、自分が、江口からボールをぶつけられなければならないのか、まったくわからない。しかし、中島がグラウンドに姿を見せた際に感じた敵意のこもった視線といい、自分がベイライツの選手たちから歓迎されていないことは明らかなようだ。

 それはそうだ。本社から、好調首位のチームに乗り込んで、飛ぶボール疑惑の真相をかぎ回っているのだ。恐らく昨日、玉原監督や安田、飯谷を呼び出して、不愉快な質問をしたことは多くの選手たちに伝わっていたのだろう。

 「ミラクル・シックスか。6回裏には逆転できますかね」

 「どうでしょうか。中島さん、それより身体が大丈夫でしたら、外に何か食べに行きませんか。神戸出張の歓迎もまだですから、ご馳走させてください」

 社長室長が試合を放ったらかしにして球場を抜け出してよいものなのか、中島には想像もつかなかったが、このまま医務室のベッドでテレビ観戦というのはつまらない。それよりも、木村亜矢子のことをもっと知りたいと思う。わずか3日の滞在ではあるが、その間の彼女のてきぱきとした業務ぶりに、中島は十分な好感を抱いていた。そういえば、昼から何も食べていない。お腹はすいているはずだ。

 中島は、木村亜矢子に外で待っていてもらうように言い、ハンガーにかけてあった自分のスーツに急いで着替えた。医務室を出ると、なれた足取りで関係者用通路を通り抜ける彼女の後について、タクシー乗り場へと出た。

 「北野へお願いします」

 彼女は運転手に言うと、「ステーキでよろしいですか」と中島に尋ねてきた。

 「もちろんです」

 北野は、神戸の中心街である三宮の北に隣接している異人館街だ。明治大正期に外国人が建てた洋館が現在も保存され、観光地として知られている。三宮から北野坂を上がるあたりは、神戸牛の高級ステーキ店が軒を連ねている。

 中島が神戸に住んでいたのは、大学を出たての20代前半のころだ。安月給の独身サラリーマンが近づける場所ではなかった。若い木村がそのような店を選んだのは意外だったが、社長室長として会食のセッティングなど利用する機会も多いのだろう。

 タクシーが到着した店も、一軒家の洋館を改装した高級な造りだった。「けやき亭」とレリーフ看板がある黒い鉄製の門を中に入ると、石畳の上を小庭を見ながら進む。剪定された植木がライトに照らし出されている。屋敷内に入ると、ロビー風のゆったりとしたエントランスにソファが置かれている。

 2人は、半円上の鉄板のある座席に通された。もちろん、料理人が客の目の前で肉を焼くスタイルだ。並びは8席ほどでやや離れて2人組の外国人男性客が座っている。

 中島に気を遣うように、木村亜矢子が比較的手頃なコースとワインの注文を済ませた。

 前菜は甘えびをすりつぶしてタルタル状にし、小さな木箱に詰めたもの。これを小べらですくって、わさび、ねぎ、キャビア、クリームチーズなど色とりどりの薬味で味わう趣向だ。風変わりだが絶品だった。夏らしく、そら豆の冷製スープとつづく。

 「中島さんは、どうしてコンビニの世界に入ったんですか」

 「銀行に行こうと思ったんだけどね、君はわが社に合わないと言われてね、自分が生まれた翌年に日本に誕生した新しい業態ということでスポライに押しかけ就職活動をして拾ってもらったんですよ」

 彼女がどこまで理解したわからないが、銀行から内定を断られたいきさつを簡単に話した。

 「コンビニというのは、消費者と商品を扱うんだけど、効率化を徹底的に追求したビジネス形態だと思うんです。入社して、それが面白いと思いました。どうすればコストを上げずに売れる商品を作れるか、各店舗への配送の無駄をなくすにはどうすればよいか、お客様をレジにお待たせしないためにどういう工夫をするか、当たり前に感じられること1つ1つに合理性があります。
 効率化・合理化というと、普通は、企業の側の都合で、顧客の利益が犠牲にされてしまいがちだけど、スポライでは、少しでもお客様に便利さをという目的が明確なので、ここまで発展してこられたと思います」

 木村亜矢子は、時折ワイングラスを口元に運んでは、中島の話を静かに聞いている。薄ピンク色の口紅が上品さを醸しだしている。

 「すみません。つい、自分ばかり話して」

 「いえ、私、知らない世界のことをお聞きするのが好きなんです。それに、中島様のお話は勉強になります」

 人に話をさせるのがうまいなと中島は思った。自分ばかりが一方的に話すのはよくないと思いつつ、若い女性からそう言われると、お追従だとしても悪い気はしない。ワインを飲んでいることも手伝って、ついつい調子に乗って話しすぎてしまう。

 目の前の鉄板では若い料理人がスズキと野菜を焼いている。ステーキターナーと呼ばれるへらを使って、熱せられた脂を白身にかけて表面をカリッと焼き上げる。料理人の説明によれば、アロゼという調理法だそうだ。スズキの旬は産卵期の冬ではなく、肉質がよく太る夏の時期が美味しいということも説明してくれた。

 「スポライは、店舗数では6300を超えました。1店舗でどのくらいの数の商品を扱っているかご存知ですか」

 「いえ、想像もつかないです」

 「普通の規模の店舗で3000前後とされています。それらの中には、自社で開発したプライベート・ブランド、いわゆるPB商品も含まれますし、人気のない商品は、1週間で棚から消えてしまうものもあります。実は、商品間の競争がはげしいんです」

 スズキと野菜を焼いた皿を出した後、目の前の料理人は赤味の肉を直に見せ、「三田牛のヘレです」と言い、焼き加減を尋ねた。木村亜矢子はミディアムレアでと答え、中島はミディアムと答えた。東京ではヒレ肉と言い、関西ではなぜかヘレ肉と呼ぶ。

 アスパラガス、ピーマン、玉ねぎはどれも厚みがあり、野菜自体の味が濃い印象だ。中島は話をつづけた。

 「コンビニはいくつもチェーン店があるけど、どのチェーンの店舗も店のレイアウトはだいたい同じですよね」

 「そう言えば、そうですね」

 「通りに面した場所は、どの店も必ず雑誌売り場になっていますよね」

 木村が中島と目を合わせたまま、小さくうなずく。

 「そうではない店を探すと珍しいんで、結構うれしくなるけど、どうして通りに面した場所を雑誌売り場にしていると思いますか」

 「さあ。立ち読みをしている人がいると、他のお客さんも入りやすくなるからかしら」

 「さすが、正解。ラーメン屋でもレストランでも、お客さんが1人もいない店には入りにくいのと一緒で、コンビニもお客さんが見えることで一層入りやすくなります。だから、コンビニ本部は店長や店員に、雑誌を立ち読みしている客を注意しないよう指導しています。ところで、さっきの質問の答えはもう1つあって、防犯、強盗対策なんです」

 「どういうことですか」

 「店の道路側に何人かお客さんの姿が見えたら、普通の強盗犯なら、強盗に入るの、やめておこうと思うんじゃないかな」

 「それって、お客さんが無料で、ガードマン代わりをしているってこと」

 「言葉は悪いが、そうとも言えますね」

 「最初にそれを考えた人は、性格の悪い人ですね」

 「どうかなあ」

 2人は自然に笑い合った。ちょうど、カットした面にも軽く焼き目を入れたステーキが出された。ソースはわさび醤油、マスタード、塩の3種が入った皿が用意されている。

 「おソースはお好みで。最初の一切れはそのまま召し上がられても、おいしいと思います」

 料理人の説明に従って、中島は肉片をそのまま口に入れ、噛みしめてみた。柔らかい食感から口内に肉汁が広がる。

 「おいしいです」

 木村亜矢子の方が先に声を出した。中島もこれほど上等な肉を食べるのは滅多にないことである。

 「それじゃ、調子に乗ってクイズをもう1題。都市部に出店を検討する場合、どういう点を見て、その店の売上げを予想すると思いますか」

 「さあ、大きな通りに面しているかとか、住んでいる人の通行量とかですか。まったく想像つきません」

 「店の後ろ側にどれだけ人が住んでいるかを見ます」

 「え、意味がよくわかりません」

 「大通りをはさんで両側にコンビニがある場合、わざわざ道を渡って反対側の店に入る客はいないんです。車で来た人を思い浮かべればわかると思います。駐車できる左側のコンビニに入るのが普通で、わざわざ反対車線側に渡っていく人は少ないでしょう。
 店のある側の後方に、どれだけ購買層になる人が住んでいるか、競合する店舗はないかが重要なんです。つまり、コンビニの店舗は前の方を向いているけど、実際に来るお客さんは後ろ側に住んでいる人だってことです。独身者とか夜遅く帰宅する人が多い地域で、8階建てくらいのマンションの1階というのが理想的な立地ということになります」

 「確かに、そういう店舗は多いですね」

 「私の方ばかり、下らないことをしゃべりすぎました。少し木村さんのことも聞かせてください」

 「わたくしは中島様みたいな知識はありませんし」

 そう言うと、木村亜矢子はじっと中島の顔を見て、笑みを浮かべた。

 自分に好意を持っていると勘違いしない男がいたら、よほどの鈍感か、逆に女性心理に慣れた男だろうなと中島は思う。自分はどちらだろうか。どちらでもない。42歳、妻子持ち。今さら舞い上がる年齢でもないし、家庭を壊す勇気もない。

 食後のコーヒーとデザートは別室に移動してサービスされる。2人は壁に暖炉まで設えられている洋間のソファへと通された。先客はいない。

 「それでは、私から木村さんに質問をします。女性に年齢を聞くのはルール違反だけど、おいくつなんですか」

 「そうですね。ルール違反です。質問する理由を述べなさい」

 わざと叱りつける口調で言った。

 「いやね、友人から聞いたんだけど、人間の人生を1日の時間にたとえるんだって。自分の年齢を3で割った数が、その人の人生時間。30歳の人だったら、3で割ると午前10時。朝の仕事が始まって、ばりばり働いてるってこと。私は42歳だから、3で割ると14時、午後2時ってこと。昼休みも終わって、もっとしっかり働けということです」

 「私には、ぴんと来ないわ」

 「それは、木村さんが年齢を気にすることがないくらい、まだ若いからですよ」

 「あら、女にとって、年齢は駆け足で過ぎ去る一生の天敵ですのよ」

 「そんなものかな。どの年齢でも魅力的な女性はいると思いますよ」

 「中島様はお世辞がうまいわ」

 「私は本当のことしか言いません」

 さすがに照れくさくなり、中島は一旦目を伏せた。結局、彼女は年齢を言わなかったが、経歴からすると30歳か少し前だろう。

 「質問その2。久松社長が言ってたけど、木村さんはアメリカのビジネス・スクールへ留学した才媛なんですってね」

 「とんでもないです」

 「大学を出て、すぐに留学したんですか」

 「いえ、普通の商社に勤めたんですけど、商社って、一度ある分野を担当すると、普通はその分野しか担当しないんです。石油関係の人はずっと石油一筋。食品の人はずっとその食品。私の場合は、配属されたのがアパレル関係の衣類部門。女性の総合職だからって単純な理由で。だけど、実はファッションとかあまり興味なかったんです。3年たって、どうせやるなら、自分のやりたいこと、自分の能力で生きていけることをしたいと思って、それで、留学したんです」

 「すごいですね。僕らは何となく就職して、何となく1つの会社にいるって時代だったけど、最近の人は目的意識というか、自分の人生をよく考えていますね」

 「そんな立派なものではありません。とにかく一度、日本を抜け出してみたかっただけです。でも、結局こうして戻っているんだから、自慢できる話ではないですわ」

 そう言うと木村亜矢子は目を伏せ、黒髪が顔にかかった。これまでの彼女がどういう風に生きてきたのか、中島には想像もつかなかったが、必ずしも平坦な道だけではなかったようにも思える。心の影に少し触れた気がした。

 「いえいえ、仕事はてきぱきしているし、交渉力もあります。とても立派な社長室長様じゃないですか。アメリカでやりたいことは見つかりましたか」

 中島は明るい声でおどけて言った。

 「アメリカでは、スポーツ選手の代理人やマネージメントを学びました。それから、球団経営についても少し」

 「道理で的確な判断ができるのですね」

 「自分の夢を他の人に言うのは、中島様が初めてです。わたくしの夢は、いつか日本球界初の女性球団社長になることです」

 木村亜矢子は中島の目をじっと見て言った。

 「木村さんなら、必ずなれますよ」

 「ところで、さっきの人生時計の話。24時になる72歳までしかありません。72を過ぎた人はどうなるんですか」

 「さあ、どうかな。その年齢になったら、会社に君臨するとか、自分の私欲とかでなく、見返りを求めず世のため人のために奉仕せよってことなんじゃないでしょうか」

 そう言えば、植田オーナーも72歳かと中島は思う。日本じゅうにコンビニを出店し、人々の生活を便利にしたり、プロ野球チームを経営することで、十分世のため人のために生きてきたのではないかと思う。

 「あら、もう9時半すぎ。21時半は、64、5のおじいちゃんってことかしら」

 「今の60代半ばの人に、おじいちゃんって言ったら怒られますよ」

 軽く笑っていた木村がひと呼吸置いて、まっすぐ中島の顔を見上げた。

 「そうですね、午後9時半から始まる人生もあるかも知れないですし」

    4

 けやき亭を出ると、日中の暑さも退いて、夜風が心地よい。遠くで車が通りすぎる音がする以外、あたりは静かだった。神戸の山側にある北野の遊歩道から見ると、市街地から港湾部にかけて、街の灯りが放射状に広がり、純白のレース編みのようだ。

 誘われた会食だったが、中島は高額を覚悟して支払いを申し出た。しかし、先に会計を済ませた木村は社長室の経費で出すという。スポライ本社だったら、社員同士の飲食を経費にすることなど認めるわけがない。ましてや、かなりの金額だろう。もし植田オーナーが知ったら、激怒することは明らかだ。会社の金で女性と高級ステーキを食った奴と一生言われつづけてはたまらないのだが。

 「きれいですね」

 中島の心配をよそに、木村亜矢子は遊歩道を進んでいく。両手を伸ばしたままふらふらさせ、くるりとこちらに振り返ったり、自由に踊っているようだった。

 「この近くに、有名なジャズクラブがありますから、軽く一杯飲んで帰りますか」

 それともこのまま帰りますかという言葉を中島はのみ込んだ。いったい自分は何を期待しているんだろうか。いくら何でも、初めて食事をして、その場の雰囲気と酒の勢いにまかせて親密な関係を迫るわけにはいかない。

 中島の脳裏には、社内のいくつかの出来事が浮かんだ。社内不倫がばれて、主要なラインから外れていった同期は、その後離婚したと聞いた。上司の中には、関係を迫った部下から、セクハラだと訴えられて、社外に追われた者もいる。異性関係で道を踏み外した者を少なからず見てきた。明日は我が身だ。自分がそうならない保証など何もない。仮にうまく関係をもてたとして、木村亜矢子が無理矢理関係を求められたと言い出せば、それまでである。

 「中島様、恐い顔をして、どうしたんですか」

 「いや、何でもありません。今日は遅いし、帰りますか」

 「他のところはないんですか」

 立ち止まった木村亜矢子が、中島の顔を下からのぞき込む。色白の顔が街灯に照らし出され、黒い瞳が光っているようにも、濡れているようにも見える。

 ほんの数秒の見つめ合いがとても長い時間に感じられる。

 天使の顔をした悪魔がいるのなら、こういう顔をして誘惑するに違いない。あるいは、征服者ユリウス・カエサルを出迎えたクレオパトラか。

 もしかしたら、この女性と一緒なら、何かが変わるかも知れないと中島は思った。「評論家」と批判され、左遷先でやりがいのない仕事をこなすだけの自分とは違う自分になれる気がする。それが破滅への一本道だったとしても、かまわないとさえ思える。

 「それは、まずいよ」

 意志とは違う言葉を口にした中島を、黙ったままの木村亜矢子はじっと見ている。

 「40過ぎの妻子持ちだし」

 中島が残った理性でそう言った瞬間、自分の人差し指を立てて、木村亜矢子は中島の唇に押しつけてきた。不意をつかれて反応できなかった中島の腰に手を回すと、木村亜矢子は背伸びして唇を重ねる。

 長いこと忘れていた柔らかい感触だった。

 自然と中島も相手の背中に手を回してやさしく抱きしめた。高まる感情の中に理性が埋没していく。そう思った瞬間、マナーモードにしていた携帯電話のバイブレータがポケットの中でブルブルと震えた。気づいた木村亜矢子は身体をすっと離した。

 「お電話、お出にならなくては」

 「いや、大丈夫だと思うけど」

 この時間にかけてくるのは、まさか植田ということはないから、妻のさゆりしか思い当たらない。中島はさすがに現実に引き戻される。

 「多分奥様からだと思いますよ。どうぞお出になってください」

 とっくに着信音は途絶え留守番設定に切り替わっているが、手を伸ばせば届くところにいる木村亜矢子との間に黒く重い錨(いかり)が降りた気がする。

 「すみません」

 うなだれるように頭を下げた中島に向かって、木村亜矢子は「帰りましょう」と言って一人で歩き始めた。その言葉は中島の心に「意気地なし」と聞こえた。

 三宮駅で別れた後、中島は沈んだ気持ちで滞在先のベイライツ・ホテルに戻った。フロントで確認すると、ベイライツは0対7でドラゴンズに連敗していた。今夜もミラクル・シックスは起きなかったというわけだ。

 東京本社から何かファックスは入っていないか、部屋番号をいうと、夜勤のフロント係はレターを預かっているという。手にして見ると、宛名も差出人も書かれていない白い封筒だった。

 中島はいぶかしく思いながらも、そのまま高層階用のエレベータに乗り込み、フロアボタンを押した後、封筒の端を破った。高速で上昇をつづける間に、封筒の中の紙片を開いてみて、中島は自分の目を疑った。

 便せんに、大きめの文字が、縦書きでワープロ打ちされていた。

 「コレイジョウ チカヅクナ シニンガデル」

次回につづく

 ▽この物語はフィクションであり、登場する人物や会社、組織などはすべて架空のもので、実在のものとは異なります。

滝沢 隆一郎(たきざわ・りゅういちろう)

 1966年生まれ。弁護士。東京大学法学部卒。架空の保険会社を舞台にした小説『内部告発者』(角川文庫)で2004年に第1回ダイヤモンド経済小説大賞(現・城山三郎経済小説大賞)を受賞。「滝沢隆一郎」はその際のペンネーム。本サイトにプロ野球とコンビニ経営企業を題材にした小説『ミラクルシックスの大飛球』を連載した。
 弁護士としては、商取引、営業秘密保護、リスクマネジメントなどに詳しい。また、脚本協力・法律監修で50作品を超えるテレビドラマ制作等に関与している。38年間にわたって日本ハム・ファイターズの熱烈なファンである。

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