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調査・検証

連載小説 ・ 飛ぶボール疑惑

連載小説9回裏:最終試合の結末、企業トップの態度

滝沢 隆一郎(たきざわ・りゅういちろう)

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 1人残された室内で、中島はテレビをつけ試合経過を確認した。ベイライツは3対4と追い上げている。固さが取れ、平常心を取り戻したようだ。逆転までもうひと息だ。

 中島はホテルの部屋を出ると、急ぎ足でベイライツ球場へと向かった。植田力オーナーは、オーナー用の特別観戦室に来ているはずだ。球場のバックネット裏後方、放送用ブースの上、2階スタンド正面に30ほど、バルコニー付きの特別観戦室が設けられている。大手企業が接待用や社員の福利厚生用に、年間1000万円単位の使用料を支払って借りている。それらの中央にオーナー用特別観戦室はある。

 中島が球場に着くと同時に、スタンドからどよめきと落胆の声が上がった。6回裏、電光掲示板に他球場の途中経過が表示されたのだ。ジーニアス3対1カープ。

 通路の係員に関係者パスを示してオーナー特別室のエリアへと入っていく。室内でも、ちょうどジーニアス戦の中継をつけたところだった。テレビ画面には、大歓声の中、白地に黒のユニフォームを来た選手がゆっくりと走っているシーンが映っていた。

 「やりました、やりました。ジーニアスの坂西、ホームラン。さすが天才、新若大将の坂西です。甘いカーブを見逃しませんでした。5対1。カープを突き放し、優勝にまた一歩前進しました」

 「早くテレビを消せ」

 誰ともなく言い出し、テレビが消された。植田は渋い表情でソファに座っている。

 「CEO、ようやく飛ぶボールの真相をつきとめました」

 中島は小声で植田に言った。見たところ、久松社長の姿はない。

 久松のスポライ・カードの使用履歴からは、彼の経費の不正使用の一端も明らかになった。私的な飲食だけでなく、大量にベイライツ戦のチケットを買った上で、それらの費用を社長の営業接待費として球団から補てんさせていたのだ。久松は大量購入したチケットを出入りのチケット・ショップに引き取らせ、換金していたのだろう。

 球団から見てチケット売り上げは立っているが、それと同額が経費で出ている計算だ。球団トップの久松が、社長室長の木村亜矢子と結託して、私腹を肥やしていたことは明らかだった。今後、親会社のスポライが本格的な調査をすれば、他にも不正が判明するだろう。

 しかし、今は目の前の試合の方が大事だ。中島は、ジーニアス戦から話題を変えようと思い、最初に植田に聞きたかったことを尋ねることにした。

 「CEOは、どうしてチャンプのことを守れとおっしゃったのですか」

 「それはやなあ。あれはチャンプがまだ新人だった時代だから、もう30年近く前のことや。わしはコンビニ事業を始めたと言っても、よその大手チェーンの見よう見真似で借金だけがふくらんでいった。
 ある日、新店探しに行った先の大家さんから、聞いたこともない三流会社に店は貸せないと断られてな。落ち込んで歩いとったら、近くの河川敷グラウンドで二軍の試合が行われてたんや。わしは仕事以外に興味がなかったから、昼間から野球だけやっていればいいなんて、楽な仕事だと思ってぼーっと見てたんや。
 そしたら、普通と違う不思議な構えをした若い選手がおってな。そいつが見事ホームランを打ちおったのや。それも打った瞬間にわかるホームランやった。ロケットみたいにぐんぐんと高く伸びてな」

 植田は遠い日を思い出すように語った。

 「わしにとっては人生で初めて目の前でホームランを見たんや。そいでな背番号24をつけとった若い選手に名前だけでも聞いておこう思ってな。ベンチ脇まで行って、おめでとう言うて、握手したんや。マメだらけのごっつい手のひらやった。素人のわしかて、素振りでできたもんやちゅうことはすぐわかったで。観客もいない河川敷で金もない若いやつが明日を夢見て必死にがんばっとる。それに比べて、わしは社長として好きな事業をやっているのに、たかだか借金のことで大切な仕事を放り出そうとしとる。甘えるなって頭を殴られた気がしてな」

 植田は照れくさそうに笑みを浮かべた。中島は植田の含羞の表情が好きだった。

 「もうわかったやろ。背番号24の選手こそ、チャンプ、玉原一郎の新人時代や。すぐに一軍に呼ばれて打ちまくった。チャンプが打てば、わしもがんばる。仕事で落ち込んだときは、チャンプのバッティングに勇気づけられた。チャンプはわしの人生の恩人なんや。そのチャンプをベイライツに迎えたのはわしや。チャンプの球歴に泥を塗るわけにはいかない。それはわしなりの礼儀の尽くし方やと思う」

 植田の述懐を聞いて、中島は決心した。今回の真相は公表せず、黙って墓場まで持って行こうと。もちろん確たる物証なしには、中島も公表しようがない。恐らく企業人としては間違っているのだろう。だが、今回だけはコンプライアンスなんてくそ食らえだ。コンビニ王植田力のチャンプへの思いをきれいなまま守りたいと思う。木村亜矢子が言っていたとおり、寺川らの共謀者の口からも自分の悪事を認める真実が語られることもないだろう。万一いつか真相が表に出ることがあれば、そのときは自分だけが責任を取ればよい。

 スタンドの悲鳴で中島は我に返った。9回表、AKBトリオの抑え馬場が相手打者の頭部に死球をぶつけ、危険投球で一発退場させられてしまったのだ。もちろん、Aの荒尾もKの小塚もすでに使い終えている。しかも、無死満塁の大ピンチだ。

 玉原監督がベンチから出てきて主審に投手交代を告げる。リリーフ投手がアナウンスされると、球場全体から大歓声が起きた。

 エースの江口史隆が緊急登板したのだ。しかし、さすがの江口も連戦の疲労はあるはずだ。ジーニアスは5対1のまま9回へ進んでいる。どうせ優勝できないなら、このまま負ける方があきらめもつくか。いや、そんな言い訳はできない。ここを0点に抑えて、目の前の試合を逆転勝ちすることに集中するべきだ。

 1点も追加点をやれない状況とあって、内野は前進守備をとる。ゴロが転がれば、3塁走者を本塁で封殺する必要がある。

 最初の打者は左打ちの外国人ハドソンだ。スクイズバントという選択肢を考えなくてよいのは助かる。しかし、パワーのある強打者なので、万一外野まで打球が飛べば、犠牲フライで失点してしまう。高めの甘い球は絶対に許されない。非常に守りにくく、何としてでも三振を取りたい場面だ。しかし、慎重にコースを狙いすぎて四死球になれば押し出しの1点を与えてしまう。

 江口はまるで2死走者なしのときと同じ余裕のある表情だった。オーナー特別室内のモニター映像を見て、これなら大丈夫と思った中島は、しかし、初球から肝を冷やした。

 打ち気満々の外国人打者に、いきなり内角高めのストレートを投じたからだ。フルスイングしたハドソンのバットは空を切った。江口のコントロールからすると狙って投げているが、あまりに危険だ。

 ここはボールになる外角の変化球で様子を見るのが定石だ。2球目、またしても江口は内角高めへのストレートで中島を驚かせた。バックネット方向へのファール・チップで2ストライク。

 こうなると、打者のハドソンの方に迷いが出る。今度こそ外角への変化球か、またしても内角の速球か。捕手のサインにうなずいた江口は3球目を投げ込んだ。意表をつく内角のスローカーブ。ボールの高さからストライクゾーンに鋭く曲がり落ちてきた。ボールと思ったハドソンはタイミングを外され呆然と見送った。ストライクの判定をした審判に何か口走っている。3球勝負の三振。

 それでも、1死満塁のピンチであることに変わりはない。つづいてミートがうまいマノックスを迎える。1点も与えてはいけない場面ということで、前進守備のホーム・ゲッツーがセオリーだ。しかし、足が速くない右打者ということで、ダブルプレーを2塁経由で取る中間守備に変えることが確認された。

 2塁経由のプレーの方が内野手は守備位置を後方に下げられる分、野手の間を抜かれる可能性を低くすることができる。しかし、打球がゆるくダブルプレーを取りそこねると3塁走者を生還させてしまうリスクがある。

 初球、江口が得意のクロスファイアー、右打者の内角低めのストレートを投げ込んだ瞬間、中島はやられたと思った。マノックスは内角球を予測し、体を開いてコンパクトに引っ張ったのだ。バットの芯でとらえた打球は三遊間を真っ二つに割った。

 ところが、三遊間の真ん中で、ショートの飯谷が横っ飛びで打球に飛びついた。捕球を確認すると、飯谷は倒れ込んだ体勢のまま2塁にスナップスローし、セカンドは1塁のあんまんへと転送した。6-4-3のダブルプレー成功。タイガースのチャンスは一瞬で潰え、チェンジとなった。

 完璧なタイムリーヒットを1本損したマノックスは、走り終えた1塁ベース付近で、ヘルメットを地面にたたきつけ信じられないという顔をしている。併殺狙いで2塁寄りに守っていたショートがどうして三遊間の真ん中の打球を捕れたのか。

 オーナー特別室のモニターは、野手の守備位置を俯瞰する天井カメラのVTR映像を流していた。江口の内角球を読んでマノックスが体を開いた瞬間、飯谷は打球方向を予測し3塁方向に猛ダッシュしたため打球に反応できたのだった。

 プロはスイングを見れば、打球の行方がわかる。二軍のグラウンドで諦めることなく努力を重ねた飯谷の目立たないが超のつくファインプレーだった。

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 9回裏、だめ押しの絶好の機会を逃したタイガースは守護神藤川をマウンドに送った。150キロを超す高めのストレートはボールが浮き上がって見えると言われ、わかっていても強打者でもまったく打てない。

 しかし、さすがの藤川も緊張したのか、1番打者に粘られ四球で歩かせてしまった。まずは同点狙いで2番が手堅くバントで走者を2塁に送った。ここで、3番の外国人打者は、簡単に初球を内野に打ち上げて凡退した。

 4番打者は、あんまん。藤川の頭に敬遠の選択肢は最初からない。真っ向勝負あるのみだ。そのとき、秘書が植田に向かって、スポライの今中豪社長が球場に到着しこの部屋に向かっていることを告げた。

 9回裏ベイライツの最後のチャンスにスタンドからは悲壮なまでの声援がつづいている。1球目空振り、2球目ファールから1球外し、1ボール2ストライクとすでに追い込まれている。万事休すか。

 4球目、藤川渾身の高めストレート。なぜか中島は、藤川がボールを投げた直後にチッと舌打ちした気がした。もちろん、マウンドから遠く離れた観戦室で、そんなことがわかるはずはない。あるいは、室内の誰かの舌打ちが聞こえただけだろうか。

 フルスイングしたあんまんは、ボールの中心のわずか下の部分をバットでとらえることにどうにか成功した。

 しかし、高く上がった打球は、藤川の球威に押されて若干つまったように見えた。122メートルと広いセンター方向へのフライだった。2塁走者の生還を警戒して浅めに守っていた俊足のセンターが背走して打球を追う。

 ベイライツ・ファンの思いを乗せた打球は意外に伸びて、なかなか落ちて来ない。フェンスの手前でセンターが捕球しようと全力でジャンプをする。捕られたかに見えたあんまんの打球はグラブの先をわずかにかすめてフェンスを直撃した。

 スタジアム全体の歓声が叫び声に変わる。同点の2塁走者はすでに本塁に達している。

 全力疾走をしてもどたどた走っているようにしか見えない鈍足のあんまんは打球がフェンスから跳ね返ったのを見て2塁ベースを回った。

 「ストップ!止まれ、止まるんだ!」

 サードコーチャーは両手を大きく振って制止する。すでにレフトがクッションボールを拾って中継のショートへ返そうとしているのだ。あんまんは泣き顔になっているコーチが見えないかのように必死に激走する。

 中継のショートからサードへは矢のような送球だった。あんまんはベース直前で足がもつれ倒れ込むように頭からすべり込んだ。

 その瞬間、白球が後方へ飛び跳ねた。送球があんまんの巨体に当たったのだった。ボールは、後方のファールゾーン、カバーに回った藤川とは別の方向へ転々としている。

 起き上がったあんまんはホームベースに向かって再び走り始めた。あわてて三塁手はフェンス際までボールを取りに行く。

 悠々セーフのタイミングだったが、あんまんは気ばかり前へ進んでもはや足が前に出ず、転倒した。ボールを拾った三塁手がホームに返球する。

 あんまんは這うようにして右手を伸ばした。ミット側左方向にそれた送球を受けたキャッチャーもタッチしようと本塁に身体ごと飛び込む。

 アウトかセーフか。

 かがんでホームベースをにらんでいた主審はついに意を決し、両手を横に広げた。

 「セーフ、セーフ」

 5対4でベイライツのサヨナラ勝ち。突っ伏したまま動けないあんまんに向かって、選手たちが一斉に駆け寄る。球場全体のボルテージは最高潮、見ず知らずのファン同士が抱き合ったり、ハイタッチをしている。悲鳴に近い歓声に隣の話し声も聞き取れない。

 「おい、今なんか言うたか」

 叫び声で盛り上がるオーナー特別室の中で植田が言った。中島が植田の方を見ると、入室してきた今中社長が直立不動の姿勢で向き合っていた。日焼けし行動的に見える今中の顔色が若干青ざめ表情は固いままだ。

 今中は緊張をほぐすように首元のネクタイを少しゆるめてから、ゆっくり口を開いた。

 「ジーニアスが、いま敗れました」

 中島は今中が言った意味がわからなかった。ベイライツがサヨナラ勝ちした相手はタイガースだ。ジーニアスは5対1で勝っていたではないか。

 今中のただならぬ様子に秘書が室内のテレビをつけた。試合は終わっていた。5対6でカープが勝ったことを報じている。

 ベイライツが勝ち、ジーニアスが負けたということは、逆転で優勝はベイライツだ。

 球場の観客の中にも興奮が徐々に広がっていた。携帯電話の試合速報を見ていたファンや友人から電話連絡を受けたファンがベイライツの優勝を知ったのだ。

 テレビはカープが9回表に1点を返しなお1死満塁から代打前田が逆転ホームランを打ち込み、裏の反撃を0点に抑えたことを伝えていた。口を真一文字に閉じ無表情でダイヤモンドを一周する前田の雄姿と静まり返ったライトスタンドのジーニアスファンがVTRで流れている。

 やがてベイライツの選手たちにも優勝の事実が知らされた。あんまんを助け起こしたサヨナラ勝ちの祝福はそのまま初優勝の歓喜へとつながった。

 玉原監督が5回、胴上げされた。選手たちが馴れていないためであろう、最後は監督の身体が流され胴上げの輪が崩れてしまった。選手、コーチたちはそれぞれ何度も抱き合い、笑顔をはじけさせている。

 中島の携帯に妻のさゆりから着信があった。

 「ミツオ君、おめでとう。今見ていたわ」

 「ああ、ありがとう」

 「帰って来たらゆっくり話を聞かせてね。それから、社長室長の木村さんとはあんまり親しくしないでね」

 「え、何」

 周囲もうるさかったが、いきなり言われて中島は驚いた。

 「わかっていたのよ。ミツオ君はうれしいことがあると、おしゃべりになって、その人のことばかり話すの」

 「そんなんじゃないよ。でも、ごめん」

 「わかっていますとも。でも、私がミツオ君のことをいつまでも愛していると安心していないでね。さあ、優勝のビールかけにあなたも行ってらっしゃい」

 電話は切れた。中島は妻には今度こそかなわないなと思う。

 興奮した雰囲気がつづく中、植田が笑みを浮かべて寄ってきた。

 「CEOおめでとうございます」

 「ありがとう」

 中島が記憶する限り、植田の口から部下に向かって、ありがとうという言葉が発せられたことはなかった。

 「飛ぶボールの調査結果はどうであれ、わしはクライマックス・シリーズへの出場は辞退しようと決めておった。君の調査結果は公表させてもらうよ」

 植田の発言に中島は驚愕した。そんなことをして、スポライやベイライツは大丈夫だろうかと思う。

 「不正の隠し事はいつか明らかになる。トップ自ら隠し続けた不正が明らかになって、会社を倒産させたり、従業員を路頭に迷わせたりする経営者をぎょうさん見てきた。そんなことにエネルギーを使うくらいなら、さっさと公表する方が傷は浅いやろ」

 中島は、不祥事を隠し通すことが企業とトップを守ることだと思った自分を恥じた。

 「昔、あるコンビニ店長から長い手紙をもらってな。すべての組織はトップ次第だと書いてあった。不祥事が起きる会社にするのも、内部の風通しをよくするのも、トップがどちらを向いているかだと。そのときはこっちの苦労も知らないで偉そうなことを言うなと怒ったがなあ。人間も組織も、間違いを起こすことはある。重要なのは、その後の対応なのじゃないか」

 もちろん、植田の表情に怒りはない。中島は、今は亡きコンビニオーナー福原弘の日焼けした顔つきを思い出した。

 「中島、球団社長に任ずる。久松が不正を働いていたことは、今中社長から聞いておる。君が後任として、調査結果の公表と事後対応を行ってくれ」

 「いえ、それは」

 中島は口ごもった。あまりにも急な話だ。それに調査結果の公表とその後の対応を押しつけられるのは、正直なところ、勘弁してほしい。今回の件で選手たちとの関係だってよいとは思えないし、何よりいろいろなことに疲れ果てた。しばらくは何も考えずに休みたいというのが本音だ。

 「これは、今中社長の考えでもある」

 見ると、植田の横に今中も近寄ってきた。

 「CEO、今、球団事務所で久松と対峙して不正行為を突きつけていたところです。最後は彼も事実を認めました。中島さん、私は私なりに、あなたの仕事ぶりと人柄を見てきたつもりです。こう言っては失礼だが、左遷と受け止めても仕方ない現在の職場で腐らずに働いていたし、今回の件でも、スポライとCEOのために一生懸命動いたことを知っています。あなたをおいて他に、ベイライツの再生にふさわしい人はいません。まだまだスポライのために働いてもらいますよ」

 「身に余るお話です。今は何しろこういう状況ですので、少しお時間をください」

 「何をぐずぐず言うておる。それより、今夜だけは、われわれもあの輪の中に加わる資格があるだろう」

 そう言うと部屋を出ていこうとする植田の後を中島は追いかける。中島の人生はいつもこうだ。まだしばらく植田から、無理難題を押しつけられるのか。でも、CEO、企業トップの感覚が正しい方を向いている限り、きっとスポライは、これからも、人に、社会に、夢を与えられるはずですよ。中島は心の中で答えた。横に並んで歩く今中が白い歯を見せて笑いかけてきた。目利き千人か。中島は、ぎょろりと睨んだ根岸達夫の三白眼を思い出した。

 グラウンドに下りた植田の姿が電光掲示板のスクリーンに大映しになると、球場全体から温かい感謝の拍手が起きた。玉原監督が近づいてきて、帽子を取って一礼してから握手を求める。

 「オーナー、ご心配をおかけしました」

 「おめでとう。つらい中、ようがんばってくれた」

 中島は玉原監督に向かって黙礼した。何があってもチャンプを守れという植田との約束はどうにか果たせると思う。一生分の全力疾走をしたあんまんも飯谷裕三も野球少年の顔に戻って、はしゃいでいた。左肩を大きなアイシング容器で冷やしている江口史隆がいる。中島が近づくと江口の方から右手を差し出してきた。

 「おめでとうございます。9回のピッチング、しびれました。三遊間の打球は抜けたと思いました」

 「狙って打たせたんだから、飯谷ならあれくらい普通に取るだろ」

 いや、あれは完全に芯でとらえたヒット性の打球でしたよとは、さすがに中島も言えない。チームメートを信頼しているのか、どこまでもポジティブなのかよくわからないが、自信過剰なくらいの方が江口らしい。

 「本当に、江口さんのおかげで優勝できました」

 「あんたもFAのことは誰にも言わないでくれたな」

 やはり江口はFA移籍してしまうのか。行くのはジーニアスか、出身地のホークスなのか。それはそれで江口が選択した人生だ。他人がどうこう言える話ではない。他球団で投げる江口を応援するのもいいかなと中島は思った。ただし、ベイライツ戦のときに好投するのだけは勘弁してくれと思う。

 植田の周囲を若い選手たちが取り囲み、オーナーを胴上げしようと言い出した。いくら何でも72歳の老人だ。どこか身体を痛めたら命に関わる。中島は止めようとしたが、植田が手で制した。

 「優勝して選手たちから胴上げされるのがわしの人生最後の夢だったんや。邪魔せんといてくれ」

 満面に笑みを浮かべて植田は選手の輪に倒れ込み、両手でVサインを突き出しながら胴上げされた。小さな身体が3度、4度と宙高く舞っている。見上げた中島の頬を涙がつたった。(了)

 ▽この物語はフィクションであり、登場する人物や会社、組織などはすべて架空のもので、実在のものとは異なります。

 ▽参考文献
落合博満『采配』(ダイヤモンド社)
清武英利『巨怪』(WAC)
愛甲猛『球界のぶっちゃけ話』(宝島社)
和田毅・杉内俊哉『サウスポー論』(ベストセラーズ)
藤井純一『日本一のチームを作る』(ダイヤモンド社)
坂井保之『プロ野球血風録』(新潮社)
森繁和『参謀』(講談社)
赤坂英一『2番打者論』(PHP研究所)
日本野球機構ホームページ「球太郎の野球雑学ページ」
坂本誠馬ほか「統一球と日米硬式野球ボールの空力特性」
(シンポジウム:スポーツ・アンド・ヒューマン・ダイナミクス2011)
木村元彦『社長溝畑宏の天国と地獄』(集英社)

吉岡秀子『コンビニだけが、なぜ強い?』(朝日新書)
渡辺仁『セブンイレブンの罠』(金曜日)
緒方知行『セブンイレブンに学ぶ発注力』(幸福の科学出版)
中村昌典『失敗しないフランチャイズ加盟』(日本加除出版)
西口元ほか『フランチャイズ・システムの法律相談』(青林書院)
本村健ほか『第三者委員会 設置と運用』(きんざい)
郷原信郎『第三者委員会は企業を変えられるか』(毎日新聞社)

『まっぷる 神戸』(昭文社)
2012年プロ野球選手写真名鑑(日刊スポーツ出版社)

海老沢泰久『監督』(文春文庫)

滝沢 隆一郎(たきざわ・りゅういちろう)

 1966年生まれ。弁護士。東京大学法学部卒。架空の保険会社を舞台にした小説『内部告発者』(角川文庫)で2004年に第1回ダイヤモンド経済小説大賞(現・城山三郎経済小説大賞)を受賞。「滝沢隆一郎」はその際のペンネーム。本サイトにプロ野球とコンビニ経営企業を題材にした小説『ミラクルシックスの大飛球』を連載した。
 弁護士としては、商取引、営業秘密保護、リスクマネジメントなどに詳しい。また、脚本協力・法律監修で50作品を超えるテレビドラマ制作等に関与している。38年間にわたって日本ハム・ファイターズの熱烈なファンである。

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