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事件記者の目

事件記者の目

調査報道と検察捜査が車の両輪であるべき理由

村山 治(むらやま・おさむ)

調査報道と検察 ― 30年前の記憶

 政治の介入または官側の忖度のいずれかによって行政手続きが歪められた疑いをもたれた「森友・加計学園」疑惑。それを掘り起こした朝日新聞取材班が今年6月までの報道をまとめた書籍『権力の背信』(朝日新聞出版)を読んだ。2つの調査報道は、世論の大きな憤激を呼び起こしたが、今のところ、リクルート事件のような首相交代や制度の抜本改革にまでは至っていない。その最大の理由は、検察の刑事責任追及が中途半端に終わったことにある、と私は考えている。今回は、調査報道と検察の関係について論じたい。

 ●調査報道の成果と限界

拡大『権力の「背信」』表紙
 私は昨年11月まで朝日新聞で記者として働いた。「森友学園事件」「加計学園問題」のそれぞれの取材班には、かつて東京社会部で一緒に仕事をした記者もいる。『権力の背信』は、彼らの活躍をビビッドに描いた。ち密で取材の基本に忠実な彼らなら、核心の事実につながる物証や証言をとってきておかしくない、と得心した。

 特に、森友学園への不透明な国有財産売却にかかわる財務省の公文書改竄を暴いた報道は見事だった。そのインパクトや社会的影響力から、朝日新聞の調査報道の金字塔とされるリクルート事件(1988~89年)や公費天国キャンペーン(1978年)と比べても、そん色のない報道だった。自民党筆頭副幹事長の小泉進次郎衆院議員が「平成の政治史に残る大事件」と評したが、その通りだと思う。

 公文書改竄をめぐる一連の報道で、改竄の証拠資料を入手した記者、裏取りに走った記者、取材・報道を取り仕切ったデスクや編集幹部の皆さんに拍手を贈りたい。資料入手の詳細を本の叙述からあえてカットしたのは、情報源保護に配慮したものと推察した。

 ただ、惜しむらくは、今のところ、リクルート事件の際に起きたような首班の交代や抜本的な制度改革にはつながっていない。報道のインパクトは十分すぎるほどあったのに、政権与党は動かなかった。それはなぜか。

 ●薬害エイズ―厚生省幹部の示唆

 ちょうど30年前、昭和最後の年となる1988年の9月は、晴れ間の少ない不純な天候だった。この年、毎日新聞社会部記者だった私は2つの調査報道にかかわった。「薬害エイズ事件」と、先にも触れた「リクルート事件」である。薬害エイズ事件は、88年のキャンペーン当時、検察は捜査に動かず、8年後に事件化した。

 私は、記者になって以来、ずっと「命とカネ」にかかわる問題を取り上げたいと思っていた。東京の司法記者クラブを「卒業」し、社会部の遊軍記者として取り上げた、土地バブルにからむ「地上げ」キャンペーンが一段落した87年秋、旧知の厚生省幹部を訪ねた。

 「それなら、血友病患者のエイズ問題だな」と幹部はつぶやいた。血友病患者がエイズに感染した原因の骨格の事実を教えてくれ、厚生行政、製薬会社、医師らにそれぞれ責任があること、さらに、それらが複雑にからむ背景構造についても解説してくれた。取材の手掛かりになる被害者側のキーマンも教えてくれた。

 当時、国内のエイズ(後天性免疫不全症候群)患者とウイルス感染者は約千人に上るといわれていたが、その9割以上は、エイズウイルスに汚染された血液で作った血液製剤で血友病の治療を受けていた人たちだった。日本では、加熱処理した安全な血液製剤の発売が大幅に遅れたため被害が拡大した疑いがあった。

 血友病患者が多数、国が認可した血液製剤で当時、不治の病とされたエイズに感染した事実自体はすでに報道されていたが、その原因や責任については報道されていなかった。私は厚生省幹部の説明に衝撃を受けた。行政、製薬会社、医師らによる不手際で、何の罪もない血友病患者をエイズに感染させていたとしたら、とうてい許されることではない。何としても記事化したい、と思った。

 ●あっさり認める

 ちょうど、地上げキャンペーンを一緒に手掛けた相棒の武田芳明記者(現・東日印刷社長)が厚生省担当になり、エイズに関心を持っていた。

 2人で取材すると、米国や西独ですでに加熱製剤の認可を受けてそれを市販していたトラベノールなど外国メーカーの加熱製剤の国内での認可が2年4カ月遅れていたことがわかった。さらに加熱製剤(第8因子)の臨床試験(治験)の代表世話人を引き受けた安部英・帝京大副学長が、開発が遅れていたミドリ十字のために、先行メーカーの治験期間を長引かせる「調整」をし、それが原因で最低でも4か月、加熱製剤の製造認可が遅れた疑いがあることがわかった。

 この「調整」の間に危険な非加熱製剤を投与されてエイズに感染した患者がいるのではないか。この「調整」の事実が構造的な不手際の真相を暴く突破口になる可能性があると思った。ただ、当事者である安部氏の証言がないと記事化は難しかった。

 88年1月中旬、武田記者と2人で安部氏にインタビューした。安部氏は案に相違して、あっさり、核心の事実を認めた。

 「ミドリはうんと遅れていたんだ。トラベノールはもうずーっと前から(加熱を)やっていたからね」

 「治験をやるのは僕らだからね。だから僕がちょっと調整する意味もあった。どの製剤も一応患者さんはみな安心して使えるんだということでやらないと、後で必ずいざこざが起きる。僕はそれまでに何回もやってきたから」

 安部氏は自ら「調整」という言葉を使った。安部氏は無警戒だった。自分が批判の対象になるとは毫も考えていなかったとみられる。治験の前後に、主宰する財団「血友病総合治療普及会」にミドリ十字などの血液製剤メーカー5社から寄付を受けていたこともすらすら認めた。

 ●キャンペーン

拡大衆院厚生委員会で証人として喚問された元厚生省エイズ研究班長の安部英・元帝京大学副学長=1996年7月23日、国会内で
 記事は、安部氏の証言を忠実になぞって作成した。証言は、厚生省幹部が教えてくれた「薬害エイズ」の図式にぴたりとはまるものだった。ただ、安部氏の証言内容の事実関係についての裏付けはとれていなかった。裁判取材が長い当時の社会部長から「大丈夫か」と問われた。しかし、安部氏はエイズ問題の有数の権威だった。証言通りに記事を構成すれば、裁判になっても「真実相当性」が認められ、敗訴することはないと思います、と答えた。「わかった。行こう」ゴーサインが出た。

 2月5日朝刊1面トップの記事からキャンペーンを始めた。加熱製剤の販売が始まった85年8月以降も、厚生省が非加熱製剤の回収や販売禁止の措置をとらず、放置した結果、非加熱製剤は1年以上、医療機関に出回り、エイズに感染したとみられる児童もいること、加熱製剤の導入が米国より2年4カ月遅れた間に非加熱製剤が国内に大量に輸入され、被害を拡大したこと―などを報じていった。

 厚生省は、エイズ感染が明らかになれば差別されるとの被害者の恐れを利用して、薬害エイズの事実を隠し通そうとしていた疑いがあった。報道するまで何の救済策も講じていなかった。

 2月中旬、血友病の子供が感染した母親のインタビュー記事を出稿した。社会の偏見を恐れ、沈黙を続けてきたが、安部氏の「調整」の事実やメーカーへの寄付金要求などの事実が明るみに出たため、重い口を開いたのだった。悔しさと不安。とつとつと語る母親の証言は胸に突き刺さった。連日の出稿疲れもあったのか、その夜、私は熱を出して寝込んだ。

 ●一人旅

 薬害エイズは、何の責任もない血友病患者が、無責任な官業医構造のもと、死病とされた疾病に感染させられた人災だった。記事は、その全貌や詳細を明らかにできたわけではないが、少なくともその一端を切り取ったもの、と自負していた。しかし、ライバルの新聞社やテレビ局は、記事をフォローしなかった。

 逆に、キャンペーンの最中、開発初期の不完全な加熱製剤でエイズ感染した米国の事例を強調した記事を掲載したメディアもあった。行政や医師を擁護し、毎日新聞の薬害エイズキャンペーンに冷水をかける報道だった。国会で野党が厚生省を追及する場面もあったが、毎日新聞のキャンペーンは「一人旅」となった。行政、製薬メーカー、医師側は非を認めなかった。

 捜査当局も当時は動かなかった。

 キャンペーンを始めるに際し検察など捜査当局との協働は考えなかった。今から考えると甘いが、当時は調査報道の力で国会や行政を動かし、状況を変えることができる、と思っていた。それに、薬害エイズを刑事事件としてとらえると、行政、製薬会社、医師らの過失の競合を具体的な証拠、つまり物証や証言にもとづいて証明しなければならない。それは当時、とても調査報道だけで掘り起こせるものではなかった。そして、そういう証拠を示さない限り、当時の検察が、独自捜査で立件するとは思えなかった。

 ●キャンペーンは言いっ放しに終わったが…。

 政権与党は、報道後、むしろ感染予防のため、エイズ患者、感染者を診断した医師に都道府県知事への届け出義務を課すエイズ予防法案の成立を急いだ。血液製剤でエイズに感染した血友病患者は、さすがに法の対象から外したが、血友病患者の被害救済については、医薬品副作用被害救済・研究振興基金法の改正で、同基金を通じて、医療手当などを給付できるようにしただけで、行政や製薬会社、医師らの責任の追及には動かなかった。

 結果として、キャンペーンは言いっ放しに終わった。しかし、報道後、血液製剤で感染した血友病患者219人が「エイズ感染は、危険な薬品を承認した国(厚生省)と、ウイルス感染を予見できた上に商品に対する安全確保配慮の義務を怠った製薬会社の責任」として国とミドリ十字など製薬会社5社を相手どり総額約250億円の損害賠償を求める訴訟を東京と大阪の地裁に起こした。

 被害者と弁護団のこの地道な裁判闘争がじわじわと厚生省や製薬会社、関係医師らを追い詰めていく。

 ●事態を動かした自社さ政権の決断

 情況が変わったのは、東京、大阪地裁の審理の一部結審を受け、自社さの村山政権の森井忠良厚相が厚生官僚の抵抗を押し切って95年8月、「和解も検討」と発言したことだ。これに呼応して原告側が和解勧告を求める上申書を裁判所に提出。同年10月6日、東京、大阪両地裁は「被告らには原告らのHIV感染について重大な責任がある」とし、国は感染被害者を早急に救済すべき、との見解を示した和解を勧告した。

 これを受けて森井厚相は同月11日、原告患者に対し「大臣として心からおわびを申し上げたい」と初めて正式に謝罪。薬害エイズ追及に向けて歯車が大きく回り始めた。森井氏は旧社会党のベテラン厚生族議員だった。

 96年1月、村山内閣から橋本内閣へ。森井氏の後任の厚相として、さきがけ政調会長として「薬害エイズ問題プロジェクト」の中核メンバーだった菅直人氏が就任した。菅氏は厚生省内にプロジェクトチームを作り、薬害エイズの調査を実施。関係者への質問と回答を報告書としてまとめ、省内から発見された40冊の内部資料を公開した。

 「薬害エイズ」被害者の救済を求め、国内外の文化人188人が「私たちも怒っています」とのアピールを発表。国会では安部氏、元厚生官僚ら延べ21人に対して参考人招致、証人喚問が行われた。また、訴訟では、国と製薬会社が被害者1人4500万円の和解金を払うことなどで和解が成立した。

 厚生省は96年6月成立の薬事法改正で、薬害エイズの反省から国民の生命・健康に重大な影響を及ぼす恐れがある病気のまん延防止のため緊急の場合は承認前の薬でも特例で使用を許可できる制度を設けた。また、薬害エイズを防げなかった薬務局を、医薬産業の振興業務を切り離した「医薬安全局」に衣替えさせた。さらに、血液行政を策定する国の中央薬事審議会の特別部会の委員に血友病患者2人を選び、被害者側の意見を聞くことにした。

 ●ケジメをつけることを求められた検察

 世論は、検察に薬害エイズの真相解明を求めた。法務省は、そうした情勢に背中を押されて検察当局に捜査するよう要請した。検察は、遅まきながら腰を上げ、96年8月29日、安部氏を業務上過失致死容疑で逮捕、続いて松下廉蔵元社長などミドリ十字の歴代3社長、厚生省の担当課長だった松村明仁・元局長らを同容疑で逮捕した。

 私は91年に毎日新聞から朝日新聞に「移籍」し、96年当時は、通産省(現経済産業省)や大蔵省(財務省)の高級官僚のスポンサーだった石油業者の脱税事件を取材中だったこともあり、薬害エイズ事件の捜査、公判は取材していない。

 摘発された安部氏らの業務上過失致死容疑は、88年のキャンペーンの初報の2~3年前の事実をもとに構成されていた。キャンペーンに反応して検察が手をつけていれば、88年当時でも、同じ事実での容疑は浮かんだはずだった。もっとも、当時の私たちの調査報道では、検察が捜査に乗り出さざるを得ないほどの「犯罪性のある事実」は掘り出せていなかったのも事実だ。

 安部氏について一審の東京地裁は無罪を言い渡した。88年当時、捜査して起訴しても、同じ結論になった可能性はあるが、こと行政については、刑事責任を追及していれば、その後の厚生行政のあり方は大きく変わったと思う。

 安部氏は逮捕前の96年7月、毎日新聞を相手取り、88年当時の一連の記事で名誉を棄損されたとして提訴した。一、二審の判決は、記事には真実性、真実相当性があるとして毎日新聞に軍配を上げ、最高裁も2005年6月、安部氏の上告を棄却。毎日新聞側の勝訴が確定した。

 ●リクルート事件に「強制」転戦

 薬害エイズの背後には国際的な血液ビジネスの不透明なネットワークの存在が浮かんでいた。その解明に手を広げ、さらに、エイズと同じように血液を介して感染する肝炎の問題にも手をつけようと考えていた。その矢先の88年6月、朝日新聞のリクルート報道が始まった。

拡大1988年6月18日の朝日新聞社会面に掲載されたリクルート疑惑の初報
 朝日新聞は、6月18日朝刊社会面トップで、リクルート社が川崎駅前の再開発にからみ、同市助役に対し、グループ企業のリクルートコスモスの未公開株を提供していた疑惑を報じた。さらに、リクルート社が森喜朗代議士(その後首相)ら多数の国会議員に未公開株を提供しているとの続報が出て一気に報道合戦に火がつく。

 バブルが急激に膨らんでいる時代だった。経済界には、株式公開する際、その企業の取引先や経営者の関係者、著名人など特定の個人や法人に株式を割り当てる「親引け」という慣行があった。

 当時は証券取引所のルールで禁止されていたが、「公開株の1割は実質、親引け」と証言する関係者もいるほど横行。一部の人たちに濡れ手に粟、の状況が生まれ、それに比例して、政官財のモラルも緩んだ。国民の多くが「目に余る」と受け止めていた。

 私と武田記者の2人は、朝日新聞の特ダネの後追いを命じられた。2人とも毎日新聞東京社会部では、経済事件取材の「プロ」と見られていた。薬害エイズキャンペーンは事実上、「強制着陸」させられた。

 「カネの問題より、命の問題の方が重い。何で、カネがらみの、抜かれネタの後追いをしなければならないのか」と正直、不満だった。しかし、サラリーマンの悲しさ。「ノー」とはいえなかった。

 ●後追いはつらいよ

 抜かれ記事の後追いはつらい。朝日新聞は、横浜支局デスクの山本博記者のもと、相当の取材の蓄積があり、東京社会部も連動して取材体制を組んでいた。一方、私らの手元には何の材料もなかった。

 しばらくして、神奈川県警が作成したとみられるリクルートコスモス未公開株の譲渡先リストが手に入った。そのリストにあった政官界関係者の名前はすでに朝日など他紙で報じられた後だった。

 経済人の中でも公益性の高い銀行の役員に目を着けた。コスモス社に融資をしている三井信託銀行と住友信託銀行の常務ら役員3人が、リクルート関連の金融会社から融資を受けてコスモス株各1万株を購入、1人が約4千万円の売却益を得ていたことを報じたが、事件の本質にはほど遠い報道だった。

 それ以外に特ダネらしい記事を書いた記憶がない。元警察庁長官が理事長を務める団体に対するリクルート側からの資金提供疑惑の原稿を出したが、警察取材が長い社会部幹部の判断で没になり、一層、ストレスがたまった。

 いずれ検察が動く、と思っていた。株価は右肩上がり。利益を生むのが確実な未公開株が政官界にばらまかれた。贈収賄罪に当てはめると、金品の授受の証明は簡単だ。あとは、未公開株の譲渡を受けた政官界関係者の職務権限に対する対価性が認められれば、贈収賄で訴追できる。そこを狙って特捜部が密かにマスコミ各社から情報収集していることも側聞していた。

 私が、政治部のプロジェクトチームの応援に行け、と命じられたのは、特捜部の内偵捜査が本格化した88年12月はじめだった。私は「左遷」と受け止めた。

 ●政治家とカネ

 政治部記者と東京、大阪、名古屋、西部の4本社の社会部記者で取材チームを作り、政治課題を掘り下げるという実験的プロジェクトだった。当初掲げられたテーマは、確か「参議院問題を考える」だった。

 政治部長に「いずれ、特捜部がリクルート事件を摘発すると、巷は、政治家の金銭スキャンダル一色になる。政治家とカネの問題をやりませんか」と提案した。リクルート事件取材で得た資料のほか、特捜部や警視庁捜査二・四課を担当した時代に蓄積した政治とカネにからむ疑惑の資料を示した。政治部長はセンスのいい記者だった。

 「おもしろい。やろうじゃないか。元旦から連載だ」

 初報は、中曽根元首相を囲む経済人の会でのカネ集めの様子を、出席者の証言で再現することにした。取材期間は20日ほどしかなかった。文字通り、大車輪の取材だった。

 連載は、89年1月1日の毎日新聞1面トップ「中曽根前首相、宴2時間で『億』動かす=政治家とカネ・第1部1」との記事からスタートした。政治部の担当デスクが名文家で、私らが詰めてきた事実を物語風に綴った。こんな記事の書き方もあるのか、と感心した。

 その間に、特捜部の捜査は進んだ。89年2月13日に江副浩正・リクルート前会長やNTT元取締役らをNTT法違反(贈収賄)容疑で逮捕。3月6日に真藤恒NTT前会長を同法違反容疑で、続けて加藤孝元労働事務次官と高石邦男元文部事務次官を収賄容疑で逮捕した。

 5月22日には藤波孝生元官房長官と池田克也元衆議院議員を就職協定をめぐる受託収賄罪で在宅起訴。宮沢喜一元蔵相、安倍晋太郎元幹事長、加藤六月元農水相の秘書ら4人を、政治資金規正法違反で略式起訴し、捜査を終えた。

 「政治家とカネ」の連載は、捜査を横目に5月10日まで42回に及んだ。取材チームの顔ぶれは変わったが、私は最後までつきあった。この連載で毎日新聞は89年度の新聞協会賞を受賞した。

 ●捜査の威力と制度改革

 リクルートコスモス未公開株のばらまきについて、「株式は公開後、上がるかもしれないが暴落の恐れもある」との理由で、公開前の入手は正当な投資行為とする声が根強くあった。

 藤波氏の秘書への未公開株譲渡が発覚した際には、渡辺美智雄自民党政調会長が、未公開株の親引けについて「全体的慣習になっている」と指摘し、「藤波氏の秘書が引き受けたそのこと自体は悪いとは思わない」と述べて擁護する場面もあった。

 しかし、捜査の威力はすさまじかった。特捜部が摘発すると、それらの声はあっという間に消え、最初に未公開株譲渡による政官界への「利益供与」を報じた朝日新聞の報道に対する評価は盤石のものとなった。

 特捜部の捜査で、竹下首相の事務所がリクルートから5000万円借りていたことが明らかになった。これも朝日新聞が特報した。その報道を受けて竹下首相は4月25日に退陣を表明。翌26日にこの借金にかかわった青木伊平元秘書が自殺した。これも捜査の「副産物」だった。竹下内閣は6月3日総辞職した。

 安倍晋太郎氏、宮澤喜一氏らポスト竹下と目されていた有力政治家は、いずれも秘書らが未公開株の譲渡を受けており、竹下首相退陣後の総理・総裁に名乗りを上げられず、軽量の宇野宗佑氏が首相になった。その宇野氏は女性スキャンダルですぐ失脚。弱小派閥の海部俊樹氏が後継となった。

 リクルート事件後、「政治改革」が重要な政治テーマとなり、小選挙区比例代表並立制を柱とする選挙制度改革、政党助成金制度、国会議員の資産公開の制度などが導入された。

 ●調査報道と検察の関係は車の両輪

 告発型の調査報道と検察捜査は車の両輪だ。調査報道が事件を発掘し、検察が、発掘された事実を捜査・訴追することで、報道のインパクトはさらに増幅し、事件を生んだ構造的な歪みについて、政権与党に抜本的な制度改革を余儀なくさせる。リクルート事件はその典型だった。

 一方、薬害エイズ事件は、そのパターンにははまらなかった。真相解明と被害救済に向け機能したのは、民事裁判で国などの責任を追及した被害者とそれに応えた裁判所、さらに彼らに共鳴した政権幹部だった。検察は、薬害エイズの責任追及を求める政権や世論に背中を押され、渋々、出動した形だった。それでも、多くの国民は、検察捜査によって事件に一定のケジメがついた、と受け取ったと思う。

 もちろん、調査報道とは無関係に、検察が独自捜査で構造の歪みを正すような事件を発掘することもある。1992年から94年にかけての東京地検特捜部の捜査がそうだ。

 東京佐川急便から金丸信・元自民党副総裁に対する5億円闇献金事件を掘り起こし、国税当局との合同捜査・調査で金丸氏の脱税を摘発。その捜査で闇献金していたゼネコンの裏帳簿を押収し、そこから茨城、宮城の2知事の公共事業をめぐる収賄事件、元建設相の斡旋収賄事件を摘発した。

 このとき、マスコミ各社は、特捜部の捜査を追うと同時に、調査報道で政官界やゼネコン業界を深く掘り起こし、検察の捜査を補完し、より構造の歪みを際立たせた。89年のリクルート事件と併せ、野放図な政治とカネの問題に国民の批判が集まり、政治資金規正法の改正につながった。

 公益の立場から政官

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村山 治(むらやま・おさむ)

 徳島県出身。1973年、早稲田大学政経学部卒業後、毎日新聞社入社。大阪、東京社会部を経て91年、朝日新聞社入社。2017年11月、フリーランスに。この間、一貫して記者。
 金丸脱税事件(93年)、ゼネコン事件(93,94年)、大蔵汚職事件(98年)、日本歯科医師連盟の政治献金事件(2004年)などバブル崩壊以降の政界事件、大型経済事件の報道にかかわった。
 著書に「特捜検察vs.金融権力」(朝日新聞社)、「市場検察」(文藝春秋)、「小沢一郎vs.特捜検察、20年戦争」(朝日新聞出版)、「検察: 破綻した捜査モデル」(新潮新書) 。共著に「ルポ 内部告発」(朝日新書)、「田中角栄を逮捕した男 吉永祐介と 特捜検察『栄光』の裏側」(朝日新聞出版)。

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