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ニューズ&コメンタリー

ロッキード事件と菅首相・枝野幹事長、その前任者ら

奥山 俊宏(おくやま・としひろ)

 現在の政府・与党のトップ2人、すなわち、総理大臣・菅直人と民主党幹事長・枝野幸男には大きな共通点がある。政治家を志すきっかけである。

 76年当時、30歳だった私は、ロッキード事件に触発されて、立候補(無所属)を決意し、政治の道に入ることになった。

  ――菅直人著『総理大臣の器』(2003年10月)


 ロッキード事件は、私が現実の政治に対して目を向けるようになる、大きなきっかけとなったのです。

――枝野幸男著『それでも政治は変えられる』(1998年5月)


 米国の航空機メーカー「ロッキード」から日本政府高官にカネが渡ったとされるロッキード事件は1976年2月に米国の上院議会で暴露されて発覚した。当初、うわさはあっても、だれがそのカネを受け取ったのかは不明だったから、日本の政界は大騒ぎになった。自民党の大物政治家たちの多くが疑われ、全員が自身の疑惑を否定し、火の粉を払うのに懸命だった。

 そのときの総理大臣が三木武夫だった。派閥の領袖たちの中ではただ一人と言っていいくらい、そうしたカネと無縁であることを自他ともに認める人だった。その「クリーン三木」の下で検察、警察、国税の3庁が合同で捜査を進め、その年の夏、三木の前任者・田中角栄を逮捕した。

 自民党内で、三木は「惻隠の情がない」などと批判され、田中派はもちろん、大平派、福田派からも総理辞任を迫られた。20人の閣僚のうち15人が「三木おろし」の側にいて、彼らが旗印に掲げたのが「挙党一致」だった。そして彼らがつくったのが「挙党体制確立協議会」。それは「キョトーキョー」(挙党協)と呼ばれていた。

 この年の暮れ、三木内閣の下で行われた衆院総選挙に、菅直人は初めて立候補した。
 菅は著書『総理大臣の器』に次のように書いている。

 私が自ら立候補したのは、1976年、ロッキード選挙と呼ばれた総選挙のときが最初だった。無所属で立候補した。そのときのスローガンが「新潟3区対東京7区」。新潟3区とは、言うまでもなく、田中元総理の選挙区で、東京7区は中選挙区時代の私の選挙区だ。田中元総理が知っていたかどうかはわからないが、私と仲間は本気で「田中角栄に象徴される政治」と闘っているつもりでいた。看板(知名度)もなく、地盤(組織)もなく、カバン(資金)もなかった。


 一方、枝野は当時、北関東・宇都宮市に住む小学生。「ガリガリの上に病弱で、頭でっかちの少年」だったという。図書館にある偉人伝を片っ端から読み、毎日の新聞を読むのが大好きだった。そして、既存の常識を破壊して総理大臣まで昇りつめた田中角栄に憧れがあった。著書『それでも政治は変えられる』に次のように書いている。

 小学校6年生になっていた1976年に、その田中角栄氏が逮捕されてしまいます。その前後の新聞は、まさにむさぼるように読みました。「面白かった」というとちょっと不謹慎かもしれませんが、本当に面白かったのです。元総理でも悪いことをし、それがバレれば逮捕されてしまう。これはすごいな、と思いました。

 田中角栄氏という人に対する思いは、単純に彼は悪い奴だ、というものとは違っていました。どんなにかっこいいことを言って立派に見えても、裏では悪いことしていたのか、ということへのやりきれなさとでも言ったらいいのでしょうか。本当に、あんな巨額の賄賂をもらいお金を集めなければ、権力を維持できなかったのか。そこまでしなければ、東大も出ていない、官僚出身でもない人間は、総理大臣になれないのだろうか。いや、ほかにも方法はあるはずだ。なければいけない。

 このときのそんな思いは今も持っています。ある意味で、私が私なりの方法で当選し、政治家として活動しているのは、このときの12歳の私に「こういう方法があるぞ」と答えているようなものかもしれません。

 菅は3回の国政選挙落選を経て1980年、衆院議員となった。そして1983年、菅が小沢一郎の存在を意識し、「敵ながらあっぱれ」と思うできごとがあったという。当時、小沢は与党・自民党の田中派にいて「田中の秘蔵っ子」とみられており、一方、菅は野党の小政党・社会民主連合の1年生議員で、2人にはそれまで何らの接点もなかった。
 菅は著書『総理大臣の器』に次のように書いている。

 私の最初の立候補のきっかけとなったロッキード事件の裁判の第一審判決が出たのは、1983年。1期目が終わるときだった。私は、田中元首相の議員辞職を求める運動をしていた。そのとき、この裁判を1回も欠かさずに傍聴している田中派の議員がいるという話を聞いた。裁判は毎週1回だ。それを欠かさないというのは、なかなかできるものではない。

 敵ながらあっぱれと思うとともに、自分自身を少し恥じた。私はロッキード事件を許せないといいながら、それがどんな事件だったのか、報道以上に深く知ろうとしなかったわけだ。傍聴を欠かさなかったその議員こそ、小沢一郎さんだ。


 一方、枝野は東北大学に進んで弁護士になったが、1993年、日本新党の公募に応じて総選挙に立候補。「日本新党旋風」に乗って当選した。その直後には、日本新党の代表だった細川護煕が、自民党を割って出た小沢らに担がれて、総理大臣に就任したから、枝野はさっそく与党の一員となった。そして、ここに初めて、菅、小沢、枝野、さらには鳩山由紀夫が、それぞれ所属政党は異なるものの、細川を支える政権与党として同じ船に乗ることになった。

 このころ、枝野は一度だけ小沢と中華料理店で食事する機会があり、「この人とは一緒にやれない」と確信したという。
 枝野は著書『それでも政治は変えられる』でこの会食の際のことを次のように書いている。

 そのときの話といえば、選挙とお金のことばかりでした。小沢氏についていけば、次の選挙では金も票も面倒みる、というようなことばかりを言っていました。政治家はすべて金と票を目の前にぶら下げれば、それで動くという先入観があるようでした。

 そういう人もいるでしょうが、それではいけないんだ、というのが日本新党の理念だったはずです。ところが、小沢氏は改革といいながら、どうも本気で改革しようという気はないようでした。政策でも官僚に依存し、資金面や選挙ではゼネコンに依存し、という自民党の悪い体質そのままの人なんだ、と改めて私は確信しました。

 

 さて、話は今年のことである。

 このように菅、枝野、小沢の足跡を振り返ってみたとき、今年6月に大きな変化があったことが分かる。ロッキード事件、あるいは田中角栄、あるいは政治腐敗に対するスタンスという点で見たとき、今年6月、日本の政府・与党が大きく変化したのだ。

 つまり……、

 枝野の前任者である小沢と、菅の前任者である鳩山由紀夫はいずれも、国会議員だった親の下で育ち、いずれも自民党田中派の議員として政治生活をスタートし、いずれもカネの問題で東京地検特捜部の捜査対象となり、秘書が起訴された。本人らはいずれも「嫌疑なし」ではなく「嫌疑不十分」を理由に

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奥山 俊宏(おくやま・としひろ)

 朝日新聞編集委員。
 1966年、岡山県生まれ。1989年、東京大学工学部卒、朝日新聞入社。水戸支局、福島支局、東京社会部、大阪社会部などを経て特別報道部。『法と経済のジャーナル Asahi Judiciary』の編集も担当。
 著書『秘密解除 ロッキード事件  田中角栄はなぜアメリカに嫌われたのか』(岩波書店、2016年7月)で第21回司馬遼太郎賞(2017年度)を受賞。同書に加え、福島第一原発事故やパナマ文書の報道も含め、日本記者クラブ賞(2018年度)を受賞。近刊の共著書に『バブル経済事件の深層』(岩波新書、2019年4月)。
 そのほかの著書として『パラダイス文書 連鎖する内部告発、パナマ文書を経て「調査報道」がいま暴く』(朝日新聞出版、2017年11月)、『ルポ 東京電力 原発危機1カ月』(朝日新書、2011年6月)、『内部告発の力 公益通報者保護法は何を守るのか』(現代人文社、2004年4月)がある。共著に 『現代アメリカ政治とメディア』(東洋経済新報社、2019年4月)、 『検証 東電テレビ会議』(朝日新聞出版、2012年12月)、『ルポ 内部告発 なぜ組織は間違うのか』(同、2008年9月)、『偽装請負』(朝日新書、2007年5月)など。
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