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通産相への2千万円を写真撮影「このカネを持っていきますから」

白島石油備蓄基地プロジェクトをともに手がけた安藤春男氏に対する満井忠男氏の弔辞

 満井忠男社長が、白島石油備蓄基地プロジェクトのコンサルタント仲間だった安藤春男会長の死を悼み、1985年4月3日、葬儀で読み上げた弔辞は以下の通り。

  弔辞

 安藤さん、満井です。
 私は今あなたの遺影の前に立ち、あなたの親しかった友人、又あなたを頼りにしていた多くの方々を代表して、お別れの言葉を述べさせていただきます。
 多年の友人であり、心を許した仲であったあなたと、今、ここで永別の言葉を述べなければならないとは、およそ思いよらざることであります。
 哀しみ深く、切ない思いで一杯であります。
 安藤さん、私はあなたの突然の訃報を全く信じられぬ思いで台北の帰途立ち寄ったソウルで知ることとなりました。
 この度の二十一日からの台湾への旅行は、出発前日の朝あなたとの打合せで、台北空港で落ち合う約束をしていたくらいです。
 ところがその日の夕刻、あなたからの急な連絡で、「今回は体調がおもわしくないので、次回はご一緒するからくれぐれも仕事のことはよろしく頼む」と気軽にこの私を送り出してくれた筈なのに、と思いながら、急遽あなたの待つ九州へ急ぐ飛行機の中で、「そんな馬鹿なことがあってたまるか」と、ひとり自問自答をくり返し、信じたくないという無言のまま私を待っていたあなたと対面した時、これ程この世の無常を憎んだことはありません。
 全く信じられない現実でありました。
 安藤さん、あなたとの出会いは、全日本不動産協会のメンバーとして、又全日本国際不動産投資株式会社の株主であり、役員としての縁で深くお付き合いするようになりました。
 当時の印象は、口数こそ少なかったが、非常に男気が強く、情にもろく、他人が困っているのを見ると放っとけず、自分のこと以上にその解決にあたっていた姿を覚えております。
 ここで、あなたの人間性を一言で云えば、負ん気が強く、度胸がよく、筋を通し、頭が切れ、その反面、非常に繊細な神経の持ち主で、仕事が何よりも好きで、これが人生の全てとして、全く愚痴も云わず弱音もはかず、二十四時間働き続けた人でした。
 あなたは昭和八年生まれの一学年先輩で、玄界灘の荒海にもまれ気性も激しく、たくましく育たれ、私も長崎の小島の荒磯で育ちました。
 共に海で育った二人の人生のドラマのような付き合いでした。
 あなたは、本当に北九州市が育てあげた地元にとって不可欠な逸材です。きっと、私ばかりでなく、今日ここにあなたの死を悲しんでお集まりの皆様、あなたを知っている全ての人々も同じ気持ちに変りはないと思います。
 ここで、あなたの死と直接関係のある仕事の話しをあえて、どうしても語らねばなりません。
 なぜなれば、白島プロジェクトそのものが、あなたの全てを物語っているからです。
 昭和四十八年のオイルショックの直後、全日本国際不動産投資株式会社の定例役員会の席で、地元の若松沖にある白島の事業化について何人かの人達がサジを投げているが、自分の幼少からの友人で脇の浦漁協組合長梶原国弘氏が自分に、この島をなんとか物にしてくれ、とたって言うので、どうか信用おける男だから是非事業化を進めたいので、一つ、君も協力してくれと相談を受けました。
 その時期、私は現在の上五島石油備蓄プロジェクトの事業化推進に没頭していた時だったので、その為に、大きな仕事を二兎追うことに躊躇し、一年以上に亘るあなたからの誘いに乗ることができませんでした。
 しかし、それでもあなたはおこらず、ねばり強く私を説得し続け、とうとうあなたの情熱にうたれ、「白島」の事業化にあなたと一緒に取組む決心をしました。
 ここに、「民間白島石油備蓄プロジェクト」としての事業化推進が始ったのです。
 この時から、あなたと私は、今迄経験も想像もしたことのない苦労が始まり結果的に、これがあなたを死に向かわせることになりました。
 考えてみるに、この巨大なプロジェクトを成功させる為には、二人の命をかける以外には成功の道は無いと語り合いましたね。
 その時からというものは、あなたも私も、枕元には、電話時計とメモ用紙を用意し又、家族の安眠に気を使い毎夜のごとく、ある夜は十二時十二分、一時五分、又二時二十三分、どうかした時は三時二十分という具合に昼夜をとおしての仕事でした。
 あなたの家の電話も、私の自宅の電話も一時は、機械の故障で料金がはね上がっている、と電話局から謝まりの連絡があった程でした。
 又、この仕事のことであなたは上京すること、ゆうに四百回を越え、日本航空も、全日空も、あなたに感謝状を出してもいいなあと、話したぐらい激しい仕事でした。
 五十一年の十二月の月などは、七回にも及び,上京の際飛行機の切符がとれない時は、新幹線の一番列車に飛び乗って往復したこともありましたね。
 五十五年の暮は、とうとう大晦日の夜から元旦の朝まで、仕事をした思い出もありますね。
 こうして我々が命懸けで仕事をしている最中に,思わぬことが新聞の記事になり、この時、責任感の人一倍強いあなたは事実無根であるけれども人様には心配をかけられないと言って大変悩んでいました。
 丁度この時、あなたは、身体の変調を訴えられ、慈恵医大に入院していた時でした。
 すでにその時の病状は、日本でも指折りの慈恵医大阿部教授の診断では、「僕の言うことを聞かないと半年の命も保証できない」と宣告された、と、あなたから聞かされていた時でした。
 そのような健康状態の中であなたは、精神力と信念と使命感とで、マスコミの皆様方の理解を求め続け、この時の難題を克服されました。
 その時にあなたが、私に話したことを思い出しました。
 「満井さん、お互にこんなに命懸けで、又家族を犠牲にしてやってきた仕事を理解されず、非難されたんではたまったもんじゃないなあ。一層のことこのプロジェクトと引換えに十年若返ることができるならば、もう何も要らないよ。その方がもっと大きな仕事がきっと二人でやれるよ。」と、あなたはしみじみ私に話されましたね。
 私も全く同感でした。
 しかし、それは所詮不可能なこととあきらめ、ともかくこの命を懸けたプロジェクトを何が何でも地元の為に完成させるべく、中央及び地方の関係者に、推進の運動をより一層致しました。
 又、一方では民間石油備蓄計画から国家石油備蓄計画にかわる際、石油開発公団法の改正に至っては、国会会期末の五十三年六月十四日に、二人は心配して、当時の国対委員長の三原先生の部屋に行き、四時間も待ってただ一言の返事をもらって安心して帰った思い出もあります。
 又、代議士の先生方の理解とひとかたならぬ御努力に通産省、石油公団は民間備蓄から国家備蓄事業に移行することを決定、これには福岡県、北九州市の強力な後押しによって推進母体として白島石油備蓄株式会社が設立されました。
 しかし、世間では「白島」が本当に着工できるのか、と大勢の人が大変不安をもってながめられていたが、二人はただの一度もそんな不安をもった事はありませんでした。
 これは気違いになり命を懸けてきた自信とでもいうのでしょう。
 人に言えないこの苦労の連続が、中央・地方の関係省庁のご理解と御尽力により公の手で開花して、去年の十月十五日起工式となりました。
 誰よりもこの日を喜んだのは、きっとあなたと私です。
 本当に長い歳月でした。
 これから五年余後の竣工を楽しみにして見届けるはずのあなたが、本当に苦労だけして、何んで死に急ぎをしたんです。これから安心して養生に専念し、一日も早く正常な健康体に戻り、楽ができたものにと、残念このうえもありません。
 今年の二月、台湾での吐血以後、飛行機に乗ったら命の保証はできないと、医者に宣告されたと、後日聞き及び驚きました。
 それなのに、この三月になってからも、二度もあなたはこの仕事のことで上京されました。例えあなたの責任感、使命感からの行動といえども、無茶という他はありません。
 あなたの上京中に私がこの事を知っていたら、きっと無理にでも手を引っぱって慈恵医大に入院させたのに、考えても残念で残念で悔やみきれません。
 この事が私にとって大きな心残りです。
 安藤さん、この私があなたの位牌を胸におさめて、あなたの分までこのプロジェクトが立派に完成するまでがんばり続けますから全く心配はいりません。
 今は、あなたと一緒に耕した土地に種を蒔き、肥料をやり大樹が育ったんです。
 その大樹には花が咲ききっと実がなるでしょう。
 あなたは極楽地から三途の川を渡ってながめに来てください。
 どうかそれまでは安心して、ゆっくりおやすみ下さい。
 そうでもされないと余りにもあなたの死が壮烈すぎて哀れでなりません。
 安藤さん、今、地元北九州市は鉄冷えが続き、その上、国家予算・地方予算に至るまで、マイナスが響きわたっています。
 万一このプロジェクトがなかったらと想像すると、この不況の厳しさにゾッとする思いです。
 本当に地元の為に有難とう、とあなたに大勢の方が感謝されていると思います。
 北九州市の市民の皆さん、ひいては福岡県民の皆さんはきっと、あなたの命と引換えに開花したこのプロジェクトを永遠に忘れることはないでしょう。
 あなたを北九州市の皆さんが育て上げたことを今日程本当に良かったとわかってくれた日はないでしょう。
 常々あなたが、このプロジェクトを推進するにあたって、物心ともにお世話になった方々に深く感謝し、終生そのご恩を忘れず生きていくと、言っておられたが、それが果せなくなったことが、さぞ心残りでしょう。
 心配に及びません。
 私が、あなたの気持ちを引受けて努めてまいります。
 安藤さん、私はあなたと苦楽を共にしてきたことを誇りに思い、あなたとの友情を人生の幸せの一つに思ってきました。
 そのあなたは、今やなし、残念至極、哀惜の情、切なるものがあります。
 あなたの友人、あなたの同志は今、限りない惜別の情を抱いてあなたの遺影の前に集い、あなたのありし日を偲び、地元の為に尽くした功績を讃え、あなたの友情に深く感謝して、心からの御冥福をお祈りしております。
 家族を心配させてはいけないと、御自分の台湾での吐血を知らせなかった程、家族思いのあなたでした。
 でも奥様は、しっかりされており、御子様達も立派に成人しておられます。
 あなたの御遺志を体して、あなたの残された光を更に更に輝やかされることでしょう。
 私共、あなたの友人一同は、及ばずながら、お守りして行きたいと思います。
 安藤さん、話は尽きませんが、もうお別れを申さねばなりません。
 それではさようなら どうか安らかにお眠りください。

 昭和六十年四月三日
        友人代表
            満井忠男

    (表現は、できるだけ原文に忠実に起こしています)

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