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事件記者の目

「法と経済のジャーナル Asahi Judiciary」10周年記念ウェビナー

官邸の意向に沿う私的な政治捜査と本当の「国策捜査」、検察幹部の「起訴基準」

AJ10年記念ウェビナー②

村山 治(むらやま・おさむ)

 2020年は検察と政治の関係が厳しく問われ、国民の関心事となった年として歴史に刻まれるかもしれない。安倍晋三首相(当時)の政治団体の政治資金規正法違反容疑が検察の捜査対象となった上、安倍首相と菅義偉官房長官(現首相)ら官邸による2016年以来4年間の検察人事への介入が極まり、「安倍・菅政権」は、介入をより容易にする法案まで策定して国会を通そうとしたからだ。その経緯を「法と経済のジャーナル Asahi Judiciary」(AJ)で克明に報じてきたジャーナリストの村山治氏と、AJの編集人を務める朝日新聞編集委員の奥山俊宏が、AJ10周年を記念し、7月20日夜、ズームのウェビナーを利用して読者の前で対談した。その一問一答を編集・加筆の上で数回に分けて紹介する。その第2回となる本稿では「国策捜査」と「起訴基準」を考える。

拡大村山氏の新著『安倍・菅政権vs検察庁』の表紙
 奥山: 捜査すべき事件を捜査しない、起訴すべき人を起訴しないっていう事例が、この10年間多々あったのではないか、という見方もあるかと思うんですけれども、それはいかがお考えでしょうか。

 村山氏: それは私もいっぱいあると思いますね。検察には起訴基準というものがあります。捜査した事件の起訴、不起訴を決める際の判断基準を指すのですが、明確な数値基準がある一方で、裁量的な相場観で不起訴にすることがあります。この10年でいうと、政治家では、小渕優子元経済産業相の政治団体を舞台にした政治資金規正法違反や甘利明衆院議員のあっせん利得処罰法違反がありました。小渕さんのケースは支援者向けの「観劇会」の収入を過少に記載するなどしたもので、関連団体の実質責任者の元秘書と資金管理団体の元会計責任者が在宅起訴されましたが、小渕さん本人は「関与が薄い」として嫌疑不十分を理由に不起訴となりました。
 甘利さんの疑惑については、独立行政法人都市再生機構(UR)との補償トラブルを抱えた千葉県の建設会社側から甘利さん側が計600万円を受領したことを甘利さん本人が認めていましたが、検察は甘利さん側がUR側に不正な口利きをした事実は確認できないとして、本人、元秘書とも嫌疑不十分で不起訴にしました。不透明な事件処理ではないか、と一部マスコミが報じましたが、小渕さんの事件処理を含め、判例や法律制定時の法解釈の議論などから、まあ、納得できるものでした。
 一方、どうにも検察のスタンスが腑に落ちない事件もありました。政治家は直接出てきませんが、2014年暮れに内部告発で発覚した東芝の会社ぐるみの粉飾決算疑惑では、市場犯罪の第一次調査機関であり、会計の専門家を擁する証券取引等監視委員会が告発相当として告発に向けた協議を求めたのに、検察側は本格的な捜査もせず「事件性がない」との見解文書を監視委に提示し、監視委の告発を牽制しました。その後も検察の姿勢は変わらず、監視委は告発のタイミングを失ってしまいました。多くの会計関係者がいまも、検察の判断に疑問を持っています。
 森友事件では、2018年春に財務省による組織ぐるみの公文書改竄が発覚しました。公文書の改竄や毀損は、民主主義の根幹を揺るがすとんでもない公務員犯罪です。起訴すれば、裁判所は間違いなく有罪判決を出すと言う検察関係者もいましたが、検察は起訴を見送りました。公文書の毀損、改竄は、財務省ほどではないかもしれませんが、検察を含む役所では日常的に行われているため、起訴すると収拾がつかなくなることを恐れたのだと思います。
 公文書の管理や開示のルール整備が欧米に比べて貧弱な日本に、真に国民のための公文書ルールを構築するきっかけになったかもしれない事件でした。この公文書改竄問題についての検察の判断は、国民のニーズに合っていなかったと今も思います。
 一方、調査報道をしてきて一番面白いと思うのは、検察が本格的な捜査さえせずに見送った事件ですよね。取材してもなかなかモノにならないんですけれども…。見送り事件の中には、検察でさえ、メスを入れられない構造的で根の深いものがある。そこにこそ本当の意味での権力犯罪があるんじゃないかとずっと思ってまして。大型の政界汚職や大企業や金融機関の犯罪捜査で、捜査の費用対効果などを考慮して「枝切り」された疑惑にそういうものが多い気がします。しっぽを触るぐらいまではいくんですが、きちんとつかんで表に出すっていうことはなかなか難しい。それでも、忘れた頃に改めてその関係者が捜査対象になることもあります。そのときは「おお、やっと」という感慨に打たれます。
 検察の起訴基準が厳格すぎるため、本来、起訴すべき人を起訴していない、それは国民の本当のニーズに応えていないのではないか、という問題意識は、かなり前から日本弁護士連合会などにありましてね。それを受けて法務・検察は司法制度改革で検察審査会による強制起訴の制度をつくりました。告発を受けて検察が捜査をして不起訴にした場合に、検察審査会が起訴相当を2回議決すると強制的に被告発者を起訴して法廷で公判を開くという、そういう制度で、2009年に運用が始まりました。
 政界などが絡む権力犯罪の追及は、少しそれでましになったという感じですね。いまや検察官たちは検審(検察審査会)をものすごく意識して捜査をしてますよね。いい加減な捜査をすると検察審査会にいって、捜査記録を一般国民が見てしまうと。その恐怖感は検察官たちにものすごくあると思いますね。だから、捜査に対する気合の入り方が違います。非常に良い循環になっていると私は思っています。

 奥山: たしかに、検察が自分の仕事をサボったり放棄したりした場合の最後の砦、ラストリゾートとして検察審査会がある、というのはその通りだと思うんですけれども、現実、「検察審査会があるからそれでいい」と言ってはならないと私は思います。捜査をする能力を持っているのは検察審査会ではなくて検察です。その検察が眠ってしまったら国民としては大きな不利益を被る。

 村山氏: その通り。巨大な損失ですね。

拡大村山治氏(左)と奥山俊宏=2020年7月20日夜、ズーム上

 奥山: これは村山さんとも以前いろいろと議論したことなんですけれども、いわゆる特捜検察、すなわち東京地検特捜部、大阪地検特捜部が国会議員を刑事立件したケースっていうのは戦後多々ありますし、国会議員の犯罪、権力犯罪に対して特捜検察が切り込むということが検察に対する国民的な要請になっていると私たちは考えているんですけれども、そうした特捜検察による国会議員の刑事立件が、2010年1月に石川知裕さんを逮捕・訴追して以来、秋元司さんが昨年(2019年)暮れに逮捕されるまでの10年近く途絶えていました。
 戦後、特捜検察の歴史を見ると、ロッキード事件で1976年8月に田中角栄さんを訴追し、佐藤孝行さんとかを逮捕したんですけれども、そこからロッキード裁判で人的リソースを取られたということもあって、撚糸工連事件(1986年5月)まで9年9カ月間、特捜検察による国会議員の刑事立件が途絶えたことがありました。もうひと昔、時代を遡ると、日通事件(1968年)からロッキード事件(1976年)までの8年間も途絶えていました。
 これらを超える長期の空白期間が、去年の暮れまで10年間あったということ、これはまさに特捜検察が眠っていたということの表れだったのかなというふうに考えられます。

 村山氏: その通りですね。

 奥山: この10年の間に東京電力福島第一原発の事故であるとか、甘利さんの疑惑であるとか、あるいは森友学園に関する決裁文書を財務省が改竄した問題であるとか、いくつか刑事処分相当の大きな事件ってあったような気もするんですけれども、これらはなぜちゃんと訴追されなかったのか。
 よく黒川さんが官邸の守護神じゃないか、みたいな言いかたをする人がいます。村山さんはそのように書いたことは一度もないと思うんですけれども、どうお考えですか。

拡大黒川弘務・東京高検検事長(右、当時)と林真琴・名古屋高検検事長(前列左、現・検事総長)=2020年2月19日、東京・霞が関の法務省
 村山氏: 黒川さんが官邸の守護神っていうのは一面で、いわゆる行政マンとしては、危機管理だとか野党に対するロビイングとかの能力にはものすごく長けたものがありますので、そういう意味では官邸の守護神と言われてもおかしくないと思いますが。まあ私の取材不足かどうか知りませんけれども、黒川さんが事件を潰したとか歪めたっていうのは、僕は知らないですね。彼は、先ほどお話しした「検察の起訴基準」について極めて忠実であり、それを「死守」しなければならない、と考えていたと思います。その点は、同期のライバルであり、現検事総長である林さんも同じだと思います。さっき話が出た甘利さんの事件だとか、森友の話については、たとえば黒川さんが検察ゾーンにいて捜査してもおそらく同じ結論になったと思いますし、政治と距離があると言われている林さんが仕切ってもおそらく同じ結論になったんじゃないかと思いますけどね。

 奥山:黒川さんや林さんが同じ基準を共有していたとしても、それはいわゆる法務本省「赤煉瓦派」の基準であって、特捜検察「現場派」の基準とは異なっているのではないでしょうか。特捜検察「現場派」が検察全体を取り仕切っていた1990年代ごろの、私どもがよく知っている従来の相場観からすると、あまりに腰が引けていて、「起訴基準」だけがその理由ではないように私には感じられます。
  「国策捜査」という言葉があります。私ども、たぶん検察担当の記者、あるいは経済事件をずっと追っかけている記者にとっては1990年代半ばぐらいから耳にするようになった言葉です。バブル崩壊後の金融機関破綻をめぐる事件捜査が国策捜査の典型例です。国策にもとづいて立法、行政、司法の3権を総動員し、あのときは明らかに国策を背景に背任罪や情報開示義務違反について起訴基準を引き下げました。
 「国策捜査」という言葉を有名にしたのは、元外務省主任分析官の佐藤優さんの著書『国家の罠』(2005年3月)だと思うんですけれども、この中で佐藤さんは、「国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して断罪するのです」という検事の言葉を引用してます。

 国策捜査は「時代のけじめ」をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して断罪するのです。
  (佐藤優著『国家の罠』287頁に引用された西村検事の言葉、2005年3月)

 ただし、いつも言っていることだけど、僕たち(特捜部)は、冤罪はやらないよ。ハードルを下げて、引っかけるんだ。(同上、300頁)

 実のところ、僕たちは適用基準は決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなくてはならない。(同上、288頁)

 私からすると、このあたりが「国策捜査」の正しい定義だろうと思います。「時代の要請」とか「国策」とか、あるいは、「主権者たる国民の意思」とか表現は違っても、いずれも実質的には同内容で、特捜検察はそれに応える役割を期待されていると私は思っています。税逃れとか脱税の捜査は伝統的に警察ではなく特捜検察が担っていますが、これなども国策捜査の典型例ですね。あとで触れたいと思いますが、ロッキード事件の捜査もしかりです。
 一方で、佐藤さんの紹介とはちょっと違う定義もあります。これは比較的広く人口に膾炙している「国策捜査」の解釈だと思うんですけれども、「独立・公平に権限を行使するのではなくて、政治的な意図に沿って訴追ありきで行う捜査が国策捜査だ」というふうな言いかたをする人もいます。

 実際の検察はこれまで決して独立・公平にばかり権限を行使してきたわけではない。政治的な意図や世論の風向きに沿い、訴追ありきで行う「国策捜査」が一例だ。
 (藤森研・元朝日新聞論説委員、「親しくとも書くべきは書く」、日本記者クラブ会報 No605  2020.7.10

 村山さんは以前、朝日新聞の紙面で、10年ちょっと前ですけれども、「国策に沿った捜査がまさに国策捜査なんだ」と述べておられます。これはまさに「国策捜査」の言葉通りの意味です。これは私も同意見なんですが、政治家の都合、そういう政治的な意図に基づく捜査があるのだとすれば、それこそが、国策とは無縁の、私的な政治捜査だ、というふうにおっしゃっておられています。

 そもそも「国策捜査」は大きな国策に沿った捜査を意味している。政治家の都合にもとづく捜査があるのだとすれば、それは国策とは無縁の私的な政治捜査だ。
 (村山治・朝日新聞編集委員(当時)、2009年5月29日、朝日新聞朝刊オピニオン面「メディア衆論 西松事件は国策捜査だったのか」)

 政治的な捜査・政治家の都合に基づく私的な捜査と、国策に基づく公的な捜査、両者はある意味対極ではあるのですけれども、ただこれを一般の人から見たときに、なかなか区別がつきづらい側面もあるのかなと思います。

 村山氏: たしかにそうですよね。検察官を含め官僚は公僕として国家に対して仕えるわけですけれども、同時に政権に対しても仕えるということになりますからね。そこのところですよね。

 奥山: 検事や官僚たち国家公務員の雇い主は誰なのか。直接的には、上司--ひいては、首相とか大臣とか政治の側も含まれますが--、その指示・命令に基づいて仕事をしていくというのが効率的な行政運営、捜査・公判運営のあり方なんだろうとは思うんですけれども、ただ究極的には国家公務員は国民全体の奉仕者として国民に仕えるべき存在です。雇い主は国民です。

 日本国憲法15条2項
 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

 国家公務員法96条(服務の根本基準)
 すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。

 国家公務員倫理法3条(職員が遵守すべき職務に係る倫理原則)
 職員は、国民全体の奉仕者であり、国民の一部に対してのみの奉仕者ではないことを自覚し、職務上知り得た情報について国民の一部に対してのみ有利な取扱いをする等国民に対し不当な差別的取扱いをしてはならず、常に公正な職務の執行に当たらなければならない。
  職員は、常に公私の別を明らかにし、いやしくもその職務や地位を自らや自らの属する組織のための私的利益のために用いてはならない。

 こういうのが正しい姿なんでしょうけれども、その区別のつけ方がなかなか難しいというか、そこが問われているというか。

 村山氏: このあたりは実際に法務・検察を、遊軍記者・調査報道記者としてずっとウォッチしてますと、けっこう当事者たちも混乱してるんじゃないかと思うときがあります。検察幹部の人たちと議論するとき、私は「検察は国民の共有資産だ。君らもその資産の一部だ。検察権行使の仕事をさぼったり、不祥事を起こしたりすると国民の資産価値を毀損することになる」「あんたたちは政権だとか、もしくは法務大臣、自分たちが所属している組織の利益のために仕事をやるんじゃなくて、国民の利益を第一にしろ」と言います。これには結構、説得力があって、彼ら、その点ではぐうの音も出ないですよね、だいたい。

 奥山: そのあるべき姿になっているかどうか。いまの検察が実際そうなっているかどうか。

 村山氏: なかなか…。この問題は、先に触れた検察の「起訴基準」と裏腹の関係にあるように思います。政界事件など微妙な捜査の問題を検察幹部と議論していると、この「起訴基準」という言葉がしょっちゅう出てくるんです。「起訴基準」とはいったいなんぞやという話になってくるんですよね。僕らが望んでる起訴基準は、彼らの起訴基準よりも相当低いので、議論が食い違うのですね。
 甘利さんの事件にしても、森友にしても、彼らの「起訴基準」からすると、彼らとしては整合性のある話なんですね。法務・検察が一致して従来の判例だとか、その時々の合意形成をしながらつくってきている起訴基準の相場観でやってるんですよね。
 ただその起訴基準なるものは、僕らから見ると「ちょっと違うんじゃないの」というのはありますよね。そこはジャーナリズムが指摘しなきゃいけないところですよね。森友の公文書改竄なんて、あんなものは起訴しないとおかしいですよね。あれを初めから「起訴しない」ってのは変じゃないのということですよね。

 奥山: 佐藤優さんの『国家の罠』に引用されている西村検事の言葉で、「実のところ、僕たちは適用基準は決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなくてはならない」というのがあります。これはまさに「国策捜査」を説明する文脈の中で出てきた言葉で、1990年代の金融破綻事件やオウム真理教事件などの捜査・訴追で私などが慣れ親しんでいる「起訴基準」の運用と符合します。
 とはいえ、法治主義の建前というか、先例重視の官僚組織としてというか、判例を重視する立場からすると過去の起訴基準との整合性が非常に大事なところであるでしょうし、実際にはそこはなかなか難しいところではあるかもしれませんけれども。誰のために働いているのか、どういう起訴基準が主権者である国民の信頼を勝ち取れるのか、は大事ですよね。いずれにせよ、決して官邸の信頼を勝ち取るための基準であってはならない。

 村山氏: まあ、西村検事のいう「一般国民の基準で適用基準を決める」というのではなく、検察は国民の声を吸い上げて判断しているわけではありません。米国の州の地方検事のように、選挙によって選ばれるのなら、検察権行使の適用基準は、国民一般ではないにしろ、管内の有権者=市民のそれに近づいていくでしょう。しかし、日本の検察官は選挙の洗礼を受けない。司法試験に合格し検察官として採用されたら国民の評価は無縁で、キャリアを重ね、昇進していく。そういう集団のリーダーである検察首脳の多くは、法務官僚としてロビーイング先の政官界関係者や学者、マスコミ関係者を通じ「世間相場」を知る。彼らが「一般国民の基準」を判断するわけです。
 「一般国民の基準」といっても、そこは、言葉のあや、で、自分たちにとってその都度、都合のいい判断をするため「一般国民の基準」という言葉を持ち出しているとの見方もできる。佐藤優さんが罪に問われた背任事件にしても、起訴、不起訴の境界線の事件でした。鈴木宗男さんの容疑を固めるため、盟友である佐藤さんの身柄を押さえるため摘発に踏み切った可能性が大だと思います。
 選挙の洗礼を受けずに権力を付与されている彼ら検察について、誰がその権力行使をチェックするのか。一義的には、国民が選んだ政治家なのでしょう。しかし、検察はその政治家の腐敗摘発を国民から期待されている。摘発対象の政治家が検察をチェックすることになれば、検察は政治家摘発に消極的になり、それは国民の期待を裏切ることになる。野党の政治家さえ摘発対象になることがある。結局、政治権力と検察権力がそれぞれ国民のために適正に機能しているのか、をチェックするには我々が先頭に立つしかない。特に、組織力のある大手マスコミの責務は重いと思います。

 奥山: 起訴・不起訴の基準が国民や政治家の意向によって左右されることには私も反対です。「人民裁判」にしてはいけませんから。
 一方で、検察は立法者の意向を無視してはなりません。一時の激情に駆られた国民世論ではなく、もっと長い目で見た主権者たる国民の意思から基準が遊離することもあってはならない。
 検察が「起訴基準」という名前の法律を制定することがあってはなりません。起訴すれば有罪にできる可能性が高いのにそれを裁量的に不起訴にするのは、ちゃんとした理由があるのならば別の話ですが、そうでない場合は、法律に罰則を設けた意味を損なう可能性があります。
 政府や与党の要職に就いているような、ときの権力者に遠慮していると見られかねないような裁量的な不起訴は往々にして、検察に対する国民の信頼を損ない、ひいては国民にとって不利益となります。そのようなことの起きないように、もし仮に起訴しないのならば、その理由をきちんと国民に公開してその納得を得ようとする、ということがなされるべきなのに、最近の検察はそれをしていない。検察審査会への説明だけでは足りません。
 昔、1998年3月に脳死臓器移植事件を不起訴にしたときには、東京地検次席検事が遺族の供述を読み上げて、嫌疑不十分と判断した理由を説明しました。これを前例にするべきだと思います。検察審査会があるのだとしても、それだけでは説明は足りず、もっと広く一般国民に理由を説明するべきです。Comply or explainです。法に従え、すなわち、刑罰法令の指示するところに従って起訴・不起訴を決定せよ、さもなくば、すなわち、裁量的に不起訴にするのならば、説明せよ、です。
 いまここで、僕たち、主に経済事件とか権力犯罪とかそういうことについて話をしてるんですけれども、これは一般の刑事事件、痴漢だとか万引きだとかそういう事件の起訴基準についてどうこうすべきっていうのも、またこれはこれで難しい話です。(次回につづく

村山 治(むらやま・おさむ)

 徳島県出身。1973年、早稲田大学政経学部卒業後、毎日新聞社入社。大阪、東京社会部を経て91年、朝日新聞社入社。2017年11月、フリーランスに。この間、一貫して記者。
 金丸脱税事件(1993年)、ゼネコン事件(93、94年)、大蔵汚職事件(98年)、日本歯科医師連盟の政治献金事件(2004年)などバブル崩壊以降の政界事件、大型経済事件の報道にかかわった。
 著書に「安倍・菅政権vs.検察庁 暗闘のクロニクル」(文藝春秋)、「市場検察」(同)、「特捜検察vs.金融権力」(朝日新聞社)、「小沢一郎vs.特捜検察、20年戦争」(朝日新聞出版)、「検察: 破綻した捜査モデル」(新潮新書) 。共著に「ルポ 内部告発」(朝日新書)、「田中角栄を逮捕した男 吉永祐介と 特捜検察『栄光』の裏側」(朝日新聞出版)、「バブル経済事件の深層」(岩波新書)。

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